太田述正コラム#12932(2022.8.13)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その62)>(2022.11.5公開)

 「山県は3月15日付の「時局意見」で、日本単独で出兵することは、外債による軍費の調達や軍需品の供給が困難であるとして、英・米との連携なしに出兵すべきではない、と論じた・・・。・・・
 山県は米国や英国が大戦で力を強めると警戒して<おり、>・・・日本が単独で出兵して米・英から非難を受け、ドイツに支援されたロシア兵と米・英という敵を腹背に持つ形になり、孤立するのを恐れたのである。・・・
 従来、・・・陸軍が、山縣・・・の消極方針を無視して、出兵に向けて大勢を引きずっていったと解釈されてきた<が、>・・・山県の出兵反対は出兵論に決定的影響を及ぼした<のだ>。

⇒伊藤は鬼の首をとったかのように書いていますが、何と言うことはない、山県は、大久保暗殺以降、一貫して、日本の事実上の最高権力者であり続けて来たのですから、当たり前なのです。(太田)

 3月18日、寺内内閣は自主出兵構想をひとまず放棄し、19日に米国に通告した。
 この同じ3月に、参謀本部はより包括的な計画として、「極東露領に対する出兵計画」を作成したが、日本は出兵に向けて動くことはなかった。
 ところが、同年6月、チェコスロバキア兵<(注102)>救出問題が起こる。

 (注102)「第一次世界大戦が勃発した当時、チェコスロヴァキアはオーストリア=ハンガリー帝国に支配され、その一部を構成していた。・・・
 第一次世界大戦でオーストリア軍に動員されたチェコ人およびスロヴァキア人の兵士でロシアの捕虜となっていたものに、ロシア在住のチェコスロヴァキア人が兵士として加わり、約4万人のチェコスロヴァキア軍団を形成していた。彼らは優秀な装備をもち訓練程度も高い兵力であった。・・・
 1917年11月、第2次ロシア革命でボリシェヴィキ独裁が成立し、レーニンが平和についての布告で即時休戦を呼びかけ、それによってドイツとの休戦交渉が始まると、フランス・イギリスはロシアの戦争離脱によってドイツ軍が西部戦線に全力を投入することを怖れた。そこで、チェコ兵をシベリア鉄道経由でウラジヴォストークから船でヨーロッパに送り西部戦線に投入することを計画、実施に移された。ソヴィエト政権はチェコ兵のシベリア通過を認めたが、チェコ兵もソヴィエト政権がドイツと講和したことに反発していた上に各地の反革命勢力はチェコ軍団を利用しようとたため、チェリャヴィンスクなどでチェコ兵とボルシェヴィキの衝突が発生した。
 1918年5月に大規模なチェコ兵捕虜とボリシェヴィキの衝突が勃発すると、それまで干渉軍派遣に消極的であったアメリカのウィルソン大統領が、チェコ兵捕虜救援のための共同出兵を日本に提案してきた。ウィルソンとしては、すでに発表していた十四カ条で民族自決の実現を戦争目的の一つに掲げていたので、チェコ民族の苦境を無視できないという處に在った。日本はすでに単独でウラジヴォストークに艦隊を派遣し、4月には日本人居留民が殺害されたことを受けて居留民保護のため陸戦隊を上陸させていた・・・。こうして、アメリカ軍・日本軍を主力とし、イギリス・フランスなども加わった多国籍の共同行動として8月、本格的なシベリア出兵が開始された。こうしてチェコ兵捕虜救出を「大義名分」とした干渉戦争の一環として、シベリア出兵は開始された。」
http://www.y-history.net/appendix/wh1501-102_1.html

 チェコスロバキア兵は、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下で徴兵された人たちだが、独立を目指してロシアに投降し、ロシア帝国の支援を受けて軍団を結成していた。
 それがレーニンの革命政権と対立し、シベリア鉄道経由でウラジオストックに出て海路ヨーロッパに帰ろうとしていた。
 そこで米国は、チェコスロバキア軍団を救出するという限定的な目的のもとに、米国軍約7000名と同数の日本軍をまずウラジオストックに終結させる方針を決め、7月10日に後藤新平外相(本野外相の後任、桂の腹心で前逓相)に伝えた。
 アメリカが出兵に賛成すれば、山県も出兵への心配を取り除ける。
 7月12日に寺内内閣は、外的制約を受けずに必要なだけの部隊を派兵する方針を決め、その方針を米国を刺激しない文言に緩和して米国に伝えた。・・・
 こうして、8月3日に軍司令部が作られてシベリア出兵が決まり、11月上旬までに7万2400人もの将兵が派遣された。
 この数を1918年中にシベリアに派兵した他の5ヵ国の派兵数と較べると、2位の米国でさえ9000人であるように、日本がはるかに突出していた<(注103)>。」(424~426)

 (注103)70,000 Japanese<日>
      50,000 Czechoslovaks
8,763 Americans<米>
2,400 Italians<伊>
2,364 British<英>
4,192 Canadian<加>
2,300 Chinese<支>
1,400 French<仏>
several thousands of Poles・・・, Serbs and Roumanians
https://en.wikipedia.org/wiki/Siberian_intervention
 ’With the Russian withdrawal from the war in 1918, German and Austro-Hungarian prisoners were allowed to return home as a result of the Treaty of Brest-Litovsk. Many of the Austro-Hungarian prisoners were of various nationalities reflecting the multi-ethnic composition of the empire.
 A number of these prisoners were of Italian ethnicity, primarily from Trentino, Istria and Dalmatia (Italian nationalists considered these areas part of the Italia irredenta). The Italian government decided to form units from these prisoners (many of them said they were Italian irredentists). They were allowed to fight for Italy and swore an oath to the King of Italy, Victor Emmanuel III of Italy.
 They were placed in a special new military unit called “Legione Redenta”: this name was related to the word “redenta” (Italian for “redeemed”) as a reference to the fact that the soldiers were “redeemed” from Austrian control and now were Italian legionaries.
 As a result, the “Legione Redenta” was created in the summer of 1918 in China and attached to the “Corpo di Spedizione Italiano in Estremo Oriente” (Italian Expedition in the Far East). Initially they were stationed in the Italian Concession in Tientsin<(天津の伊租界)>. They were trained in Tientsin by Major Cosma Manera (it), an official of the Italian Carabinieri who chose the name “Redenta” for the unit.
 The Italian legionaries played a small but important role during parts of Siberian Intervention, fighting alongside the Czechoslovak Legion.
 The main areas of operations were Irkutsk, Harbin and Vladivostok.
 The Legione Redenta fought until November 1919 when as part of the general Allied withdrawal from Russia, it returned to Italy, where it was welcomed with military honors.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Legione_Redenta

⇒本筋から離れますが、シベリア出兵における「イタリア」「軍」の存在はつい今まで見過ごしていたところ、チェコ軍団と同じくロシアの墺軍捕虜という「出自」であっても、国がまだ存在しなかったチェコスロバキア、と、国が存在していたイタリア、の違いが、両「軍」の規模の違いもあって、「イタリア」「軍」の存在を私に見えにくくしていた、ということでしょうね。(太田)

(続く)