太田述正コラム#12938(2022.8.16)      
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その2)>(2022.11.8公開)

 「・・・梅津は明治44(1911)年11月に陸大<(注2)>を卒業するが、この時の成績は首席だった。・・・

 (注2)「陸軍大学校<の>・・・期ごとの人数は草創期を除いて50名から60名で推移し、最終期である60期は120名。卒業者は通算で3,007名。陸軍士官学校(陸士)同期生の1割程度が陸大に入校できたとされる。・・・
 皇族(皇族に準じる扱いを受けた王公族を含む)は、無試験、もしくは形式的な入校試験で入校できた。・・・
 <ちなみに、>北白川宮成久王<(コラム#12833)>の陸大27期の卒業席次は52位(卒業者56名)であった。・・・
 陸大の修学期間は本来は3年であった<。>・・・
 卒業席次上位6名には恩賜の軍刀が授けられ、これら6名は「軍刀組」「恩賜組」と呼ばれた。首席卒業者は天皇の前で40分間の御前講演を行った。・・・
 陸軍砲工学校(砲工学校)高等科優等卒業者は陸大卒業者と同等に扱われ、東京帝国大学等に員外学生として派遣されて学士号を取得した者は陸大恩賜組と同等に扱われた<。>・・・
 陸軍人事に陸大卒業成績が反映されるのは、陸大を卒業してから10年間とするという内規があったとされ<、>大尉の時に陸大を卒業したとして、大佐進級までは陸大卒業席次が大きく影響するが、そこから先、特に大佐から少将への進級には、上下の評価ならびに本人の実績が影響し<た。>・・・
 <すなわち、>陸軍高級将校の人事考課は・・・陸士・陸大の卒業成績にそれほど拘泥しなかった<のであり、>・・・陸軍高級将校の人事考課は一般にいわれるような硬直したものでなかった<。>
 <例えば、>将官になれなかった22%(80人強)のうち、恩賜組が11人(うち首席が3人)いた。・・・
 <なお、>一番優秀な人を情報参謀にする、二番目は後方参謀<にし、>作戦参謀などは、どうでも、それが解れば出来るんだ<というのが>・・・イギリス<流だが、>・・・<日本の>陸軍大学<は、作戦参謀教育一辺倒だったという批判がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1
 「武石典史は陸士17期(明治38年3月卒業)から陸士55期(昭和16年7月卒業)について陸幼出身者(陸幼組)と中学校出身者(中学組)の出身家庭を調査し、 陸幼組は「近代セクター(武官・官公吏(文官)・教員・警察官・会社員・医師・弁護士・政治家など)」の占有率が高く、当時のエリートの代表である高等学校生・帝大生をも上回っていた。 中学組は「農業セクター」の占有率が高い。 陸幼組の出身家庭の多くを占める「近代セクター」の中でも武官の占める割合が常に高く、陸幼生徒の2割から3割が武官の子息で占められていた。 という3点を指摘している。 武石典史は、 父兄の属する経済階層で比較すると、陸幼組が中学組を上回っていた。 出身地(出身中学校所在地)で比較すると、陸幼組は東京府出身者が最も多かったと見られるのに対し、中学組の出身地は全国に分散していた。と述べている。 陸軍将校の進級・補職に対しては、陸士の卒業成績、陸大の卒業成績が決定的な影響を及ぼしていたとされる。陸士の卒業成績では、上位と下位に陸幼組が多く、その中間に中学組が多いとされてきた。 武石典史は、陸士15期(明治36年11月卒業)から陸士46期(昭和9年6月卒業)について陸士卒業序列を調査し 陸幼組が上中位層に偏りを見せる。中学組が中下位層に偏りを見せる。成績上位層の大半を陸幼組が占める。という3点を指摘し、下記のように述べている。 いずれにせよ,集団としての陸幼組と中学組とでは,少尉任官という陸軍将校としての第一歩の時点でスタートラインがかなり異なっていた。 — 武石典史、 武石典史は、陸士15期から陸士44期(昭和7年7月卒業)の陸大卒業者について、陸士卒業成績別に「少尉任官から陸大に入校するまでの平均所要年数」と「陸大優等卒業者(恩賜組)の人数」を調査し、陸士卒業成績が上位であるほど、陸大卒業者の比率が高い。 陸大卒業者の実数と輩出率の双方で、陸幼組が中学組を上回る。 陸大恩賜組(卒業席次上位6名)の輩出数では陸幼組が中学組を「2倍から3倍」と圧倒しており、首席・次席・三席の上位3名に限ると、陸幼組68名に対し中学組は10名とさらに差が広がる。 少尉任官から陸大入校までの所要年数を検討すると、陸大入試において、陸幼組が中学組より優遇されていたとは認めがたい。陸大を受験するには所属長(連隊長など)の推薦が必要であり、所属長が推薦するのは陸士卒業成績上位の者であるのが自然であるため、陸士卒業成績が上位であることが多い陸幼組が有利になったことはあろう。という5点を指摘している。陸大に合格するには3年程度をかけての受験勉強が必要とされていた。陸大受験資格を有したのは「所属長の推薦を受けた、陸士を卒業して少尉任官後に隊附(部隊勤務)2年以上の中尉・少尉」であったが、中尉・少尉の期間に陸大の受験勉強をするためには、所属長が便宜を図ってくれることが重要であり、かつ優秀な部下が陸大に入校することは所属長にとって喜ばしいことであった。所属長から陸大入校を期待された中尉・少尉に対しては 連隊旗手(連隊本部での勤務となるため、余暇が多い)に選ぶこと。陸士予科の区隊長(余暇が多い)に派遣すること。陸大入試の日程上(4月に師団所在地で初審、8月に初審合格通知、12月に東京の陸大で再審・合否決定)、受験勉強の追い込みの時期に行われる秋季演習(10月末から11月)への参加を免除し、さらに11月半ばから休暇を与えて上京させて勉強に専念させること。などが行われた。・・・武石典史は、中央三官衙(陸軍省・参謀本部・教育総監部)の課長級以上に補職された者(陸士15期から陸士39期(昭和2年7月卒業))について、陸大卒業席次、陸幼組・中学組の別、陸士卒業席次を調査し、陸幼組(217名)に対し、中学組(68名)は約3分の1に留まる。陸士と陸大の双方で成績上位であるほど、三官衙の課長に就任できる可能性が高かった。 陸士の成績が上位であれば、陸大卒の履歴を有さない「無天組」でも中央三官衙の課長への道、稀な例ではあるが局長への道が開かれていた。という3点を指摘している。さらに、陸士優等卒業・陸大優等卒業であれば90%が中将以上に至ったのに対し、陸大優等卒業のみの場合は中将以上に至ったのは76%に留まり、明確な差が認められるという今西英造の見解を紹介している。 武石典史は、帝国陸軍において陸士の卒業成績・陸大の卒業成績が進級と補職に大きく影響したため、陸士・陸大の双方において成績上位者を多く輩出している陸幼組が、中学組と比較して、より高い階級に至って長く現役に留まり、より重要なポストに補任される結果となったものである、と結論している。」
https://www.weblio.jp/content/%E6%AD%A6%E7%9F%B3%E5%85%B8%E5%8F%B2%E3%81%AE%E8%AB%96%E8%80%83

 士官学校の一期下で、のちに陸軍を背負う逸材と目された永田鉄山が2番の成績だったことからも、いかに優秀な頭脳の持ち主だったかがわかる。・・・」(26)

⇒「注2」を踏まえ、陸大の首席だの2番だの、陸大での成績を重大視し過ぎてはいけない・・現に杉山元は恩賜組ではない、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8D%92%E6%A5%AD%E7%94%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7
いや、そもそも、幼年学校出でもない・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
という前提下でですが、北白川宮がビリでもブービーでもなくビリから4番目という「好成績」だったことは驚きです。
 他の皇族方の陸大(や陸士)での成績も知りたいところですが、皇族のポテンシャルの高さということかもしれませんね。
 (もとより、参謀本部が成績を付ける際、鉛筆を舐めた可能性は皆無ではありませんが・・。)
 なお、日英の陸軍参謀教育の比較話も「注2」に出てきますが、その箇所はきちんとした典拠に則った記述ではないこともさることながら、先の大戦で、F機関等
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B2%A9%E5%B8%82
による諜報(情報)戦での優位もあり、日本が勝ち英国は負けた以上、陸大におけるものを含めた幕僚教育は英国のそれよりも優れていた、ということにならざるをえず、明らかに間違っています。(太田)

(続く)