太田述正コラム#12940(2022.8.17)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その3)>(2022.11.9公開)

 「大正2(1913)年2月、<陸大での>成績優秀者に与えられる特典として、ドイツに軍事研究へ行くこととなった。
 梅津の欧州留学は、一時帰国を除いて約8年の長期間にわたり、ドイツを振り出しにデンマークやスイスなど、各地で見聞を深めた。
 その途中、第一次世界大戦が勃発し、はからずも史上初の「総力戦」を間近に見ることになったのは、大きな収穫だったろう。<(注3)>・・・

 (注3)「大戦期の派遣武官は、従軍武官・・・とその他の武官・・・に大別することができる。
 日本は<まず、>・・・<英、仏、露>の各国軍に5人前後の武官を従軍させた。
 その後、<伊>、ルーマニア、<米>が連合国側に参戦すると、そこにも従軍武官を派遣した。・・・
 一方、その他の派遣武官には外国駐在員、外国留学生、外国出張者などがあった。
 まず外国駐在員は陸軍大学校優等卒業生などの優秀者で、陸軍当局の選定によって学術研究のため外国へ派遣されたものである。
 これに対し、外国留学生は軍事や語学などの研究のため、自分の出願によって留学が許可されたものであり、その費用は自弁であった。
 その他、特定目的のため外国出張を命じられたものや、休暇を利用して外国旅行に出たものもあった。
 派遣期間は6ヵ月未満から2年以上まで様々であり、1ヵ国に滞在しながら特定テーマを調査研究する場合もあれば、数ヵ国を回りながら戦況視察や部隊・工場見学などを行う場合もあった。」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiPx7eFws35AhXzm1YBHegUC9IQFnoECA4QAQ&url=https%3A%2F%2Frepository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp%2Frecord%2F51339%2Ffiles%2Fnkk022007.pdf&usg=AOvVaw2QIc3uDqyCyxrAK-s7R3sL

⇒梅津の長期の在欧を、そのウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%B4%A5%E7%BE%8E%E6%B2%BB%E9%83%8E ※
からは全く窺うことができないのは呆れます・・他方、コトバンクは「1913年(大正2)より1920年までドイツ、デンマーク、スイスの駐在武官を歴任して、第一次世界大戦を観察した」
https://kotobank.jp/word/%E6%A2%85%E6%B4%A5%E7%BE%8E%E6%B2%BB%E9%83%8E-35237
とある程度は記している・・が、それは、「注3」からも分かるように、まさに第一次世界大戦という特殊事情があったからこそであるところ、それにしても長過ぎる感が否めません。(太田)

 梅津は・・・軍人が政治や世論に惑わされることを嫌い、政治にかかわることを徹底的に避けようとした。
 [二葉会<(注4)(※)>、]一夕会<(注5)>や桜会<(注6)>への不参加は、まさしくその証左の一つと言えよう。
 己が生まれたその日、「大帝」明治天皇が下した・・・軍人勅諭・・を胸に抱くような生き方を通したのである。」(26)

 (注4)「二葉会<は、>・・・1921年(大正12年)のバーデン=バーデンの密約のメンバーである永田、小畑、岡村とその後参加した東條、河本、板垣らを中心に、陸軍士官学校15期から18期の卒業生のエリートが中心に結成された会。名称は、1927年(昭和2年)から定期的に会合を持つようになった場であるフランス料理店二葉亭に由来するという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%A4%95%E4%BC%9A
 (注5)「一夕会(いっせきかい)は、1929年(昭和4年)5月19日に日本陸軍内に発足した、佐官級の幕僚将校らによる会合。陸軍士官学校14期生から25期生を中心に組織された。・
 一夕会は二葉会と木曜会のメンバーが合同してできたものとされる。その2つの会合が直接統合したというわけではなく、木曜会の会合に二葉会の永田鉄山や東條英機が顔を出すようになったのを契機として、それらの会は継続されたまま、新たに一夕会という会合が持たれたという方が近い。
 一夕会には多くの陸軍高級エリートが所属していたが、優等卒業者は多く参加していたものの首席卒業者は鈴木率道のみであった。・・・」(上掲)
 「木曜会は、すでに発足していた永田ら当時の中堅幕僚を主なメンバーとする二葉会にならってつくられたものであ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%9C%E4%BC%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%99%B8%E8%BB%8D) 
 (注6)「1930年9月、参謀本部の橋本欣五郎中佐、陸軍省の坂田義朗中佐、東京警備司令部の樋口季一郎中佐が発起人となり設立した。参謀本部や陸軍省の陸大出のエリート将校が集まり、影佐禎昭、和知鷹二、長勇、今井武夫、永井八津次などの「支那通」と呼ばれる佐官、尉官が多く、20数名が参加していた。その設立趣意書には、政党政治の腐敗と軍縮への呪詛が述べられ、軍部独裁政権樹立による国家改造を目的としていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BC%9A

⇒軍人勅諭に「世論に惑はす政治に拘らす」とある
https://ja.wikisource.org/wiki/%E9%99%B8%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA%E3%81%AB%E8%B3%9C%E3%81%AF%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%82%8B%E5%8B%85%E8%AB%AD
のは確かですが、これを、岩井のように、「政治にかかわることを徹底的に避けよ」とだけ解釈できるわけではなく、「世論やその世論に左右されがちな政治に惑わされるな」とも解釈できるわけですし、そもそも、梅津が、軍人勅諭のこのくだりにこだわったことを裏付ける典拠を岩井は示してくれていません。
 また、桜会への不参加はともかく、梅津が一夕会等に参加しなかったことに、特別な意味があるとは、「注5」からも、必ずしも言えないのではないでしょうか。(太田)

(続く)