太田述正コラム#12948(2022.8.21)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その7)>(2022.11.14公開)

 「・・・近衛とつきあいのある一人に、秋山定輔<(注12)>(さだすけ)がいる。・・・

 (注12)「さだすけ」は誤りか?
 あきやまていすけ(1868~1950年)。「東京帝国大学卒業後、会計検査院に勤務。1893年に大石正巳・稲垣満次郎を顧問に『二六新報』を社長として創刊。資金難のため1895年休刊。1900年再刊し、三井財閥攻撃、娼妓自由廃業などの醜聞暴露キャンペーンによって民衆の人気を博す。同様に有名人のスキャンダルを売り物とする『萬朝報』紙と売り上げを二分した。1901年、日本最初の労働者集会といわれる労働者大懇親会を東京向島で主催。
 1902年に衆議院議員に当選するが、露探事件でロシアのスパイ疑惑が浮上する。懲罰委員会では証拠はなかったがロシアのスパイである嫌疑がぬぐえないと報告。1904年3月28日に衆議院本会議で議員辞職を勧める処決決議(議員辞職勧告決議)が可決<、>・・・衆議院議員を辞職した。
 議員の職を追われた後は政界の黒幕として明治から昭和にかけて活動し、大隈内閣の成立工作とその倒閣運動や松島遊郭疑獄への関与の疑い、さらには孫文や蔣介石などの中国大陸の要人との接触が取りざたされた。1937年、歌人柳原白蓮の夫である宮崎龍介が<支那>を訪問しようとして憲兵隊に逮捕された際には、関連を疑われて数日間拘留されている。また近衛文麿による新体制運動の構築にも協力していた 。一方で1915年・1917年の総選挙や1928年の東京市長選へ立候補し政界への復帰を目指したが、いずれも落選している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E5%AE%9A%E8%BC%94

 秋山がある時、内閣資源局企画部の池田純久<(注13)>(すみひさ)中佐(梅津と同郷の大分県中津出身でのち中将、内閣総合計画局長官)に対し、次のように述べた。

 (注13)1894~1968年。「軍人・池田純孝の長男として生れる。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、・・・陸軍士官学校(28期)<、>・・・陸軍大学校(36期)を卒業<。>・・・陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部で<も>学んだ。・・・
 東大修了後、軍務局課員(軍事課)となる。この頃、陸軍省新聞班発行『国防の本義と其強化の提唱』の原案作成者の一人となる[要出典]。1934年(昭和9年)10月から1935年(昭和10年)3月まで欧米出張。1935年・・・12月、支那駐屯軍参謀に着任。盧溝橋事件後に戦闘の不拡大に尽力したが果たせなかった。1937年(昭和12年)8月、陸軍兵器本廠付となり、資源局企画部第1課長、資源局を引き継いだ企画院では調査官として国家総動員法の制定に携わる[要出典]。・・・1939年(昭和14年)8月、歩兵第45連隊長に就任し日中戦争に出征。1940年(昭和15年)8月、奉天特務機関長となる。1941年(昭和16年)7月、関東軍司令部付となり、同年8月、陸軍少将に昇進。同年9月、関東軍参謀(第5課長)となり、次いで関東軍参謀副長を務めた。1944年(昭和19年)10月、陸軍中将に進み、1945年(昭和20年)7月から翌月まで内閣綜合計画局長官に在任し終戦を迎えた。・・・
 戦後は、極東国際軍事裁判において梅津美治郎の補佐弁護人を務めた<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E7%B4%94%E4%B9%85

  「梅津大将〔原文ママ。当時は中将〕はきみの郷里の先輩ではないか。近衛内閣の倒壊を企図する陰謀をめぐらしているといううわさである。きみからよく注意したまえ」・・・
 池田はこれを否定したものの、そういったうわさが流れていることが心配になってきた。
 その数日後、池田は荻窪にある近衛邸(荻外荘)に呼ばれ、近衛本人からも言われる。
  「池田君、梅津君は君と同郷だそうだね。梅津の陸軍か陸軍の梅津か、といわれるほどの偉い将軍だそうだね。しかし近衛内閣倒壊の陰謀をもっている様子だってね」・・・
 これを聞いた池田は・・・梅津のもとへ行き・・・、一度近衛を訪ねてくれと頼み込む。
 しかし、梅津はなかなか同意しない。
  「池田君、僕は次官だよ。大臣を抜きにして総理に会うことは、越権ではあるまいか」
  「大臣の認可を受けられてはどうでしょうか」
  「そのうちに会うことにしてみようか」
 とようやく承知し、一カ月後、近衛のもとを訪れた。
 近衛はこの時の感想を、のちに池田に話している。
  「池田君、梅津将軍に会ったよ。1時間ばかり話してみたが、聞きしにまさる偉い将軍だね。政治的陰謀なんかやれる人じゃないね」
  「それごらんなさい!」」(83~86)

⇒池田は、国策研究会(1938年~)か、その前身の国策研究同志会(1933年~)か、は知りませんが、「国策研究会に革新政策の立案を要請するなど新官僚との交流を広げた」人物であり、
https://kotobank.jp/word/%E6%B1%A0%E7%94%B0%20%E7%B4%94%E4%B9%85-1637899
その国策研究会が、「第1次近衛内閣(1937年 – 1939年)から小磯内閣(1944年 – 1945年)に至る各内閣に・・・、<同>会の関係者多数が入閣をしていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AD%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A
関係から、近衛と付き合いがあったのでしょうが、杉山構想が梅津には明かされていた上、その時点では梅津は杉山陸相に仕えていた、のに対し、近衛には明かされておらず、いかに鈍感な近衛とはいえ、自分が何か大きな陰謀に載せられているのではないか、と正しく疑心暗鬼になっていて、三代もの陸相に仕えてきて大物次官視されていた梅津に疑惑の目を向けるに至っていた、といったところではないでしょうか。(太田)

(続く)