太田述正コラム#12950(2022.8.22)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その8)>(2022.11.15公開)

 「盧溝橋事件<当>・・・時の参謀総長は閑院宮・・・であり、皇族ゆえ実務には携わっていない。
 また次長の今井清<(注14)>(梅津の陸士同期)は病臥中ということもあり、参謀本部を双肩に担った第一部長の石原莞爾の苦労は想像に難くない。

 (注14)1882~1938年。中央幼年学校、陸士、陸大(優等)卒。参謀本部作戦課長、同第一部長、陸井軍勝人事局長、軍務局長、第4師団長等を歴任後、参謀次長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E6%B8%85

 石原は不拡大方針の代表者だったが、現地軍と居留民の安全を考慮した結果、やむなく派兵を決裁した・・・。
 しかし、石原や彼の設置した戦争指導課<(注15)>は不拡大をあきらめず、派兵は2週間のうちに3回も決定と中止が繰り返された。

 (注15)「昭和11年(1936年)の参謀本部の中に・・・通称「戦争指導課」(第2課)が・・・創設された・・・。昭和12年(1937年)に戦争指導課は廃止され、新たに第2課となった参謀本部作戦課に所属する「戦争指導班」(第2課第1班)として改編されました。しかし、昭和15年(1940年)に、戦争指導班は作戦課を離れ、参謀次長が直轄する第20班となりました。  戦争指導班の任務は、長期的、総合的な観点から国策の企画および立案を行うことでした。とくに、昭和15年からは、大本営政府連絡会議に提出する議案の作成や審議に参加し、陸軍省や海軍省、軍令部、外務省などの部局との折衝を通じて、政治や外交、経済問題にかかわりました。」
https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index09.html

 石原は陸相室に杉山元を訪れ、同室した梅津や田中新一<(コラム#10042)>軍事課長を前に”・・・この際思い切って北支にあるわが軍全部を一挙山海関・・・の満支国境までさげる、そして、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と膝づめで日支の根本問題を解決すべし”・・・<と>訴えたという。・・・
 これに答えたのは杉山ではなく梅津で、「いつもの冷静さ」でこう述べた。
 ”実はそうしたいのである。がそれは総理に相談し総理の自信を確かめたのか。北支の邦人多年の権益財産は放棄するのか。満州国はそれで安定しうるのか”・・・
 石原は、参謀本部内でも部下と対立していた。
 作戦担当の武藤章第三課<(注16)>長は田中新一と同じく強硬論者で、・・・石原と怒鳴り合いを演じることすらあった。・・・

 (注16)当時は、第三課が作戦課だったということだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

 8月14日、執務が取れなくなった今井に代わり、第11師団(香川県・善通寺)の師団長・多田駿が参謀次長に就任する。
 多田は中国文化に深い造詣を持ち、陸軍でも屈指の中国通と呼ばれた人物である。
 石原とも旧知の仲で、石原以上とも言える日中戦争不拡大論者だった・・・。
 そして石原は多田に自分の意思を託すがごとく、9月に内地を去る。
 関東軍参謀副長に異動となったのだ。<(注17)>・・・」(88~91)

 (注17)「今井清のあとをうけ、多田は参謀次長となる(石原作戦部長の推挽とされる)。多田は、石原、河辺虎四郎戦争指導課長、陸軍省の柴山兼四郎軍事課長と同じく不拡大派であった。多田と石原は、苦戦する上海への増兵を容易に認めず、華北方面でも限界線を示して事変の拡大阻止に努めた。しかし、上海では兵力の逐次投入により大損害を被り、華北では現地軍の積極論に押し切られてしまう。この結果、9月27日に石原は更迭され、関東軍の参謀副長へ転出となった(この時、関東軍の参謀長は東条英機であり、石原と鋭く対立したという。・・・)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E9%A7%BF

⇒「武藤章、田中新一ら・・・は対支一撃論を唱え、国民政府に強硬姿勢で望み 講和を引き出すという方針を陸軍上層部に訴え<、結局>、事変の不拡大と拡大のどちらが良いのかのはっきりした長期戦略の無いまま、対支一撃論に従って上海を攻略し(第二次上海事変)、南京も攻略した(南京攻略戦)<ことで、>日本軍は強力な一撃を国民政府に加えることに成功したが、国民政府は屈服せず、これ以後、中国全土に事変が波及した。その後、武藤は部下の石井秋穂に後悔の念を述べている。但し、上海への陸軍派遣は天皇の要望を汲んで米内光政海相らが主張したことであり、実際の事変拡大は陸軍の強硬派が独断で進めたわけでなく、トラウトマン工作を否定するなど強硬派を支援する形で政府側が進めた政策である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%94%AF%E4%B8%80%E6%92%83%E8%AB%96
ということであるところ、「政府側」とは、私見では、杉山元ら杉山構想推進者達が背後で操っていた近衛内閣をを指しているわけですが、このように、当時の帝国陸軍部内には、不拡大論、短期拡大論(対支一撃論)、長期拡大論(杉山構想がらみ)、の3つの勢力がせめぎあっていたことに注意を喚起しておきたいと思います。(太田)

(続く)