太田述正コラム#12966(2022.8.30)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その16)>(2022.11.23公開)

 「前年、アメリカはすでに日米通商航海条約の破棄を通告しており、日本と英米の関係は悪くなるいっぽうだった。
 近衛は関係改善を目指して努力を続けたが、外務大臣の松岡洋右と対立する。
 昭和16(1942)年4月18日、日米間の関係改善を目的とした「日米諒解案」がアメリカから野村吉三郎<(注33)>駐米大使を通じて届けられた。

 (注33)1877~1964年。海兵(26期・次席)。「野村は1907年(明治40年)に海大・・・を受験し、優秀な成績で合格していた。海外に海軍士官を派遣する予算にたまたま余裕があったため、野村がオーストリアに派遣されることとなり、野村の海大入校が沙汰止みとなったものである。・・・
 1901年(明治34年)に完成した戦艦三笠引取りのために<英国>へ渡ったのをはじめ、<墺、独>駐在を経て、在<米>日本大使館駐在武官を歴任したほか、パリ講和会議とワシントン軍縮会議の全権団に随員として加わるなど、海外経験が豊富であった。後に<米>大統領となるフランクリン・ルーズベルト海軍次官ら海外の政治家とも親交があった。やがて1926年(大正15年)には軍令部次長となり、以後呉・横須賀の両鎮守府司令長官などを歴任した。
 1932年(昭和7年)に第一次上海事変が勃発すると、第三艦隊司令長官となっていた野村は、揚子江上の軍艦による艦砲射撃などで白川義則陸軍大将率いる陸軍の上海派遣軍を側面支援した。上海事変が終結した4月29日、同地で催された天長節祝賀会の最中に・・・爆弾事件が起こる。・・・この事件で野村は右眼を失明、特命全権公使の重光葵は右脚を失い、同席していた白川は瀕死の重傷を負って翌月に死去した。
 傷が癒えた野村は、同年10月から2回目の横須賀鎮守府司令長官を務め、翌1933年(昭和8年)3月に大将に親任され、同年11月に軍事参議官に転じる。・・・
 1937年(昭和12年)、・・・4月6日に 予備役入りを待って第16代の学習院長の発令。海軍大将経験者の学習院長は初。院長は1939年(昭和14年)10月7日まで務めた。後任は同じ海軍大将経験者の山梨勝之進。・・・
 1939年(昭和14年)8月末、予備役陸軍大将の阿部信行が組閣の大命を受けると、阿部は当初外務大臣を兼任したが、政権発足直後に欧州で第二次世界大戦が勃発すると、国際法に詳しい専任の外相がどうしても必要になった。そこで阿部が抜擢したのが野村だった。海軍時代から国際法の研究に携わっていた野村は、退官する頃までにはその権威として知られていたのである。しかし9月25日に野村は外相に就任するが、3か月半と経たないうちに阿部は内閣を放り出してしまう。その後日米関係が悪化の一途をたどる中、1941年(昭和16年)1月に野村は駐米大使に起用される。フランクリン・ルーズベルト大統領とは旧知の間柄ということが期待されての人事だった。
 在<米>大使館駐在武官の経験はあるものの、英語はあまり流暢ではなく、<米国>政府要人との外交交渉の場で野村の英語力がネックになることさえあったとされる。日本の南部仏印進駐によって<米国>との関係がさらに悪化すると、外務省は駐独大使を歴任した外交官の来栖三郎を異例の「二人目の大使」としてワシントンに派遣、両大使で・・・コーデル・ハル<米>国務長官と戦争回避のための交渉を行わせることにした。
 来栖は外務省入省直後から<米国>勤務が長く、夫人は<米国>人で、英語が非常に堪能な<米国>専門家であったが、如何せん駐独大使としてナチス・ドイツおよびイタリア王国との日独伊三国同盟に署名した張本人であり、ルーズベルト大統領は同じ海軍の出身で旧知の間柄である野村を好意的な目で見る一方、来栖には不信感を隠さなかった。交渉は難航し、野村は再三にわたって辞職願いを出すが、外務大臣ばかりか海軍大臣や軍令部総長からも慰留されて結局大使の立場にとどまっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E5%90%89%E4%B8%89%E9%83%8E

⇒野村を、優秀だから更なる教育の必要なしと判断したためか海大に入校させなかった海軍当局の人事も、さしたる米国通ではなく英会話能力にも遜色があったにもかかわらず駐米大使に起用した近衛首相の人事も、どちらも落第ですが、後付け的に言えば、海大教育が陸大教育に比して大学相当教育としても参謀教育としても問題があったと思われる・・機会あらば、具体的に検証したい・・以上は、また、米国政府がチャーチルの慫慂もあって、日本を対英米戦争へと追い込むことを狙い、交渉する気などなかった以上は、どうでもよかった、と言えそうです。(太田)

 この案は、もともと日米の民間人の間で始まった交渉がもとになっており、陸軍大臣の東條英機も原則的には賛成していた。
 しかし、肝心の松岡外相は最後まで納得せず、承諾の返事を求める政府や統帥部に対し「そんな弱いことに同意はできないのである」と突き放す始末だった・・・。
 近衛や陸海軍と松岡の溝は結局埋まらず、閣僚の罷免ができない首相としては、松岡を辞めさせるためだけに一度総辞職するしかなかった。
 総辞職と同日に大命は三度近衛に下り、昭和16(1941)年7月18日、第三次近衛内閣が発足した。
 外務大臣は予備役海軍大将の豊田貞次郎<(注34)>が就任し、陸海軍大臣は替わらず、再度日米交渉に乗り出すことになった。」(116~117)

 (注34)1885~1961年。海兵(33期・首席)、オックスフォード大留学2年半、海大(17期・首席)。「1923年(大正12年)、・・・<英>大使館附武官に任じられ、・・・ロンドン生活は4年間に及び、大佐に昇進している。しかも帰国命令は出ず、国際連盟で開催されているジュネーブ海軍軍縮会議の随員に横滑りしたため、帰国したのは1927年(昭和2年)末である。・・・
 1931年(昭和6年)に軍務局長に任じられた。
 ところが就任から半年で、豊田は軍務局長を更迭される。・・・軍令部長に就任したばかりの伏見宮博恭王大将に対して失言したためではないかと推測されている。「大臣になりたい」が口癖のエリートが、初めて挫折を経験した。大学校時代以来、ろくに軍事の学習をしていない豊田に対して宛がわれたのは、専門としていた砲術とはまったく関係のない航空本部であった。1932年(昭和7年)11月の定期異動で豊田は広工廠長に任じられた。・・・
 広工廠は先発の造船工場とは異なり、航空機整備を主力とする特殊な軍需工場であった。航空機への理解は徐々に高まりつつあったが、整備に必要な工具や部品も満足に調達できない厳しい環境にあった。現場に叩き落された豊田は、現場の窮状を肌で感じ取り、工業生産力の向上が必要であることを認めた。・・・
 1934年(昭和9年)5月に艦政本部総務部長、1936年(昭和11年)2月に呉工廠長、1938年(昭和13年)11月に航空本部長(1939年(昭和14年)夏に3ヶ月間艦政本部長を兼任)と、12年度の佐世保鎮守府長官を除くと軍事技術の最前線での勤務が続いた。・・・
 1940年(昭和15年)9月、豊田の雌伏の時間は終わった。海軍大臣・吉田善吾が病気辞職し、次官・住山徳太郎も退いたため、豊田に念願の次官が回ってきた。最大の懸案事項であった日独伊三国同盟の締結に向け、海軍大臣・及川古志郎を差し置いて活動した。豊田自身は三国同盟を好ましくないと認識していたが、外務省・帝国議会・陸軍が賛成している状況下で海軍が孤立することを警戒していた。・・・
 次官在任中は、次官室に歴代次官の肖像や名札を陳列し、自らの名もその末尾に連らねさせたが、井上成美はこれを「さながらナチスの第五列の如し」と皮肉り呆れている。また及川を差し置いて自らのもとで政務に関する案件を決裁してしまうことも多く、こうした行き過ぎた自己顕示欲は「豊田大臣、及川次官」という陰口となって跳ね返ってくることになった。・・・
 近衛は・・・小林<一三>の後任に豊田を<商工大臣に>推した。・・・
 <更に、>第3次近衛内閣を組織した・・・近衛は・・・松岡の後任の外務大臣に、わずか3か月前に商工大臣に就任したばかりの豊田を横滑りさせ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E8%B2%9E%E6%AC%A1%E9%83%8E

⇒抜群の秀才であったとはいえ、人格的に問題がある豊田を重用した帝国海軍や近衛の人事は、帝国海軍も近衛も、どちらも自身が病んでいたからこそだ、とすら言いたくなります。(太田)

(続く)