太田述正コラム#12968(2022.8.31)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その17)>(2022.11.24公開)

 「松岡が第二次近衛内閣時代に推し進めたのが、日独伊三国同盟(昭和15〔1940〕年9月)と日ソ中立条約<(注35)>(昭和16〔1941〕年4月)である。

 (注35)「中立条約の興りは、満洲事変の発生した1931年(昭和6年)に遡る。・・・芳澤謙吉駐仏大使が、翌年1月の外務大臣就任のための帰国の途上、モスクワに立ち寄った際にソビエト連邦側から・・・提案<された>という。・・・1年余りの検討の結果、ソ連と協力することは共産主義を輸入するに等しいと、条約締結には至らなかった。また、1930年代には日本国内に反対論も存在した。
 1939年(昭和14年)9月、<欧州>で第二次世界大戦が勃発する。1940年代に至り、当時の日本は日<支>戦争(1937年勃発)下で、日米関係や日英関係をはじめ<米国>や<英国>などと関係が極端に悪化しており、国交調整のための政府間での日米交渉が行われていた。当時の駐ソ連大使・東郷茂徳(後に東條内閣の外務大臣)は、ナチス・ドイツおよびイタリア王国との日独伊三国同盟の締結に反対し、むしろ思想問題以外の面で国益が近似する日ソ両国が連携することによって、<独米中>の三か国を牽制することによる戦争回避を企図し、日ソ不可侵条約締結を模索。
 ところが、親英米派で日独伊三国同盟締結に消極姿勢の米内内閣(米内光政首相)が総辞職し、第2次近衛内閣(近衛文麿首相)が発足し松岡洋右が外務大臣に就任すると、構想は変質させられ、日独伊三国軍事同盟に続き、日ソ中立条約を締結することによりソ連を枢軸国側に引き入れ、最終的には日独伊ソの四ヶ国による同盟を締結するユーラシア枢軸(「日独伊ソ四国同盟構想」)によって、国力に優位であるアメリカに対抗することが目的とされるようになった。
 当初、ソ連はこれに応じなかったものの、ドイツの対ソ侵攻計画を予見したことから提案を受諾し、1941年(昭和16年)4月13日、モスクワで調印した。・・・
 <なお、>この条約の締結に先立ち、すでに第二次世界大戦の勃発により西部戦線で独伊両国と交戦状態であった日英開戦直前に<、英国>の・・・チャーチル首相は、松岡に「ドイツは早晩、ソ連に侵攻すること」を警告している。・・・
 ソ連は中国共産党及び重慶国民政府への支援を継続し、特に独ソ戦以降は支援を強化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84

 しかし日ソ中立条約が結ばれてわずか2カ月後、ドイツはソ連に宣戦を布告する。
 ここにきて日ソ中立条約を結んだ張本人である松岡は、とたんに「対ソ攻撃」論者に早変わりする。・・・

⇒松岡が有名になったのは、1932年に国際連盟に満州問題に関する政府全権として派遣された時ですが、その折、外務省、満鉄(理事、副総裁)を経て政友会の衆議院議員だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3
彼を派遣すること決めた人物が、(外務官僚繋がりで松岡を知っていたはずの)内田康哉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BD%8B%E8%97%A4%E5%86%85%E9%96%A3
だったのか、それとも、(パリ講和会議当時に松岡と知り合ったところの、)西園寺、牧野、(立場上考えにくいけれど)近衛、のうちの誰かだったのか、知りたいところです。
 さて、第二次近衛内閣の時に松岡を起用したのは当然近衛だったわけであり、その近衛は、杉山元らの傀儡だった以上、三国同盟と中立条約の締結は、全て、杉山元らの「指示」の下に行われたものであって、近衛に裁量の余地はなく、もちろん松岡だって裁量の余地などなかったはずです。(太田)
 
 陸軍では昭和16(1941)年5月13日、独ソが「開戦必至」であるとの電報を駐独大使大島浩(予備役陸軍中将)より受けていた。
 にもかかわらず、15日に開かれた参謀本部部長会議では「独『ソ』遽(にわ)かに開戦せざるべし」と判断を下している・・・。・・・
 しかし、6月6日になると大島大使がヒトラーやリッベントロップ外相から得た情報として「開戦概ね確実」の電報が届く。
 ・・・参謀本部第一部長の田中新一・・・は・・・6月<9>日・・・に開かれた部長会議で持論・・北方解決、つまり独ソ開戦の場合には対ソ武力行使・・を展開した。・・・
 <他方、>独ソ開戦<後、>・・・梅津は・・・ソ連がドイツに簡単に屈服するという見方に疑問を抱き、また中立条約の精神からして対ソ開戦にかなり慎重な意見・・・<を>大本営にとどけ<た。>・・・
 陸軍部内には北方よりも南方進出を希望するものもおり、また海軍は北方への進出には乗り気ではなかった。
 <そんなところへ、>昭和16(1941)年6月30日、ドイツから・・・正式な参戦要請が届く・・・。・・・
 こうしたドイツ側からの要請もあり、7月2日午前会議が開かれ、・・・暫く之に介入することなく密かに対「ソ」武力的準備を整え・・・独「ソ」戦争の推移、帝国の為有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す・・<と>決定された。」(117~120、122~124)
 
⇒南方進出と対ソ抑止をベースとする杉山構想は教えられていたと思われる田中が、同構想の見直しを迫ったのに対し、杉山らは首をタテにふらなかった、というわけです。(太田)

(続く)