太田述正コラム#12972(2022.9.2)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その19)>(2022.11.26公開)

「・・・梅津は、日本が太平洋戦争に突入した知らせを・・・受けた<時、>・・・部下の一人、田村義富<(注38)>第一課長を呼び出し、・・・「この戦争はどうなるだろうか」と質問し・・・たところ、田村大佐は即座に「この戦争に勝ち目がないように思います」と答えた<が、>梅津・・・は「自分もそのように思う」と云って<いる。>・・・

 (注38)1897~1944年。陸士(31期)、陸大(39期・恩賜)、フランス駐在。「太平洋戦争では、関東軍、大本営、中部太平洋方面艦隊と転任し、1944年7月、第31軍参謀長としてグアム島に赴任し、同地で激戦を続け、ついに部隊は玉砕し自決し・・・陸軍中将に<死後>進級<し>・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E7%BE%A9%E5%86%A8

⇒私見では梅津は杉山構想を知っていて田村は知らなかったわけですが、梅津は、田村もホンネではそう答えるであろうことを知っていて、それをストレートに表現するかどうかを確かめるべく、田村を試したのでしょう。
 とまれ、まともな陸軍の上澄みであれば、対英米戦争の帰趨は明らかだったわけであり、そんな戦争をどうして彼らがやったのか、という問いに、残された我々は、誰もが向かい合わなければならないのです。(太田)

 <ところで、>当時、支那派遣軍隷下の第11軍司令官だった阿南惟幾は、開戦を間近に控えた11月28日の日記に、・・・岡村〔寧次<(注39)>・北支那方面軍司令官〕大将と語り、皇軍本来の姿に還元せんが為には、梅津大将の陸相就任を可とすと論ず。東条〔英機・首相兼陸相〕、果して之を容るゝや否や。杉山〔元・参謀総長〕、山田〔乙三<(注40)>(おとぞう)・教育総監〕両大将、頼りにならず。歎ずべきかな。・・・<と、>記している。

 (注39)1884~1966年。幼年学校、陸士(16期)、陸大(25期)、陸軍省人事局補任課長、関東軍参謀副長当時の1933年、国民政府軍の全権だった何応欽と塘沽協定を締結、北支那方面軍司令官を経て、第6方面軍司令官、そして、支那派遣軍総司令官。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9D%91%E5%AF%A7%E6%AC%A1
 (注40)1881~1965年。幼年学校、陸士(14期)、陸大(24期)、中央役職として目ぼしいものは参謀本部第3部長、同総務部長くらい。「1939年(昭和14年)10月、中支那派遣軍司令官から教育総監に就く。1944年7月、「参謀総長となった梅津美治郎の後任として関東軍総司令官に就任する。」戦後、「ソ連に抑留され10年以上経って日本へ帰国した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%B9%99%E4%B8%89

 阿南は、「皇軍本来の姿に還元」するには、杉山や山田では物足りなく、同郷の先輩である梅津こそ、その任に相応しい人物と考えていたのだ。」(132~134)

⇒「注39」からも、私は、岡村には杉山構想は明かされていなかったと見ており、北支那方面軍司令官の時も、八路軍「対策」は隷下の第1軍に任せよとの彼をつんぼ桟敷に置く内命を受けていたのではないか、とさえ想像しています。
 (梅津の後任の第1軍司令官の篠塚義男(注41)は、篠塚が首席で陸士を卒業して最初に配属された歩兵第1聯隊の先任将校だったのが梅津で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%A1%9A%E7%BE%A9%E7%94%B7
両者には親交があったと思われるところ、梅津は(その経歴(上掲)からして杉山構想を明かされていないはずの)篠塚に、(改訂)杉山構想中の八路軍「対策」だけを伝達すると共に、篠塚の代々の後任
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
にも同様の伝達を行うよう「命じた」とも。)

 (注41)篠塚は、その後、軍事参議官を経て予備役となるも、1945年(昭和20年)9月17日に自決している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%A1%9A%E7%BE%A9%E7%94%B7 前掲
 杉山元の自決
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
に遅れること5日だ。

 他方、阿南は1939年から10月から1941年4月まで陸軍次官を務めており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE
その時点で杉山構想を明かされていたと私は見ているところ、阿南が終戦の日に自殺したにもかかわらず、日記は焼却せずそのまま残したということは、彼の次官当時以降の日記はメーキングされたものであるはずだ、ということになり、その中の記述の信憑性は必ずしもないことになります。
 いずれにせよ、阿南は、岡村との次期陸相月旦雑談の中で、岩井の解釈であるところの、杉山や山田が陸相になるのは物足りない、と言ったわけではなく、単に、次期陸相人事は陸相、参謀総長、教育総監の3人の合意でなされるところ、梅津を次期陸相にすることについては、東條(首相兼)陸相はもとより、杉山参謀総長も山田教育総監も首をタテには振らないだろう、と言っただけでしょう。
 その梅津は、陸相でこそなかったけれど、参謀総長になるのですから、阿南が梅津を高く評価したのはあながち的外れではなかったわけです。(太田)

(続く)