太田述正コラム#12986(2022.9.9)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その26)>(2022.12.3公開)

 「・・・梅津と阿南の2人はこれまでにないほど連携が取れていたようだ。
 同郷の先輩後輩、かつ阿南は梅津を畏敬してやまず、梅津も阿南を信頼していたと見られる。
 梅津の下に来た河辺虎四郎<(注55)>(かわべとらしろう)<も同趣旨のことを>記している。・・・

 (注55)1890~1960年。幼年学校、陸士(24期)、陸大(33期・優等)。「河辺正三大将(陸士19期歩兵科)は兄<。>・・・作戦畑を歩みながら関東軍参謀、近衛野砲兵聯隊長、第7飛行団長といった部隊職、ソビエト連邦やドイツの大使館付武官も経験している。
 ・・・柳条湖(溝)事件時は参謀本部作戦班長、盧溝橋事件時は参謀本部戦争指導課長という枢要なポストにいて、独断専行の現地陸軍部隊を時の上司(満州事変時は今村均作戦課長、日中戦争時は石原莞爾作戦部長)と協力して引留めようと努力した。とくに盧溝橋事件では、支那駐屯歩兵旅団長(少将)だった実兄の正三が現場責任者という皮肉な巡り合わせを経験している。また、作戦課長時代には戦争指導のため出張、<支那>大陸の部隊を訪れている最中に、戦争拡大を目論む勢力によって浜松陸軍飛行学校教官へ左遷されるという憂き目にあっている。それ以降は、陸軍中央からは遠ざけられており、河辺が再び参謀本部への復帰を果たすのは戦争末期の1945年(昭和20年)に入ってからである。・・・
 GHQ)参謀2部(G2)部長のチャールズ・ウィロビーに接近し、1948年(昭和23年)、軍事情報部歴史課に特務機関「河辺機関」を結成。辰巳栄一(28期歩兵科)も関わる。河辺機関へのGHQからの援助は1952年(昭和27年)で終了したため、河辺機関の旧軍幹部(佐官級)はG2の推薦を受けて保安隊に入隊している。河辺機関はその後、「睦隣会」に名称変更した後に、内閣調査室のシンクタンクである「世界政経調査会」になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%BE%BA%E8%99%8E%E5%9B%9B%E9%83%8E

⇒虎四郎には杉山構想が明かされず、その兄の正三には明かされていたと見られる・・正三は盧溝橋事件(支那中共化本格着手)の時とインパール作戦(インド解放着手)の時にそれぞれ大きな役割を果たしている・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%BE%BA%E6%AD%A3%E4%B8%89
ところ、ドサ回りさせられていた虎四郎を、梅津が先の大戦終末期に参謀次長に就けて、その兄の功績に報いた、ということではないでしょうか。(太田)

 阿南の義弟(妻の弟)で終戦時陸軍中佐、軍務局軍務課内政班長として阿南の下で働いていた竹下正彦<(注56)>の証言もある。

 (注56)1908~1989年。陸士(42期)、陸大(51期・優等)。「終戦時は陸軍省軍務局軍務課内政班長。「宮城事件」の原因となる「兵力使用計画」と「兵力使用第二案」を起案した。8月13日、陸軍大臣官邸において、陸軍省の他の青年将校らとともに阿南惟幾陸軍大臣からポツダム宣言受諾の報告を受けるがこれに反対し、徹底抗戦を主張した。その後も首相官邸で陸相を突き上げ、鈴木貫太郎内閣の閣議に影響を与えた。
 阿南陸相主導による陸軍の「承詔必謹」の方針決定後、一度は決起を断念した。
 しかし、上記の「兵力使用第二案」に沿って部下の畑中健二少佐(陸士46期)と椎崎二郎中佐(同45期)が8月14日にクーデターを引き起こした。(宮城事件)
 8月15日未明には、畑中少佐に説き伏せられ、義兄の阿南陸相に決起を迫るため陸相官邸に赴く。そこで井田正孝とともに阿南陸相の自刃を見届けることになる。
 宮城事件において、竹下は制止する機会があったが止めず、最終的に畑中、椎崎はともに自決した。
 終戦後、1952年(昭和27年)に警察予備隊(陸上自衛隊の前身)に入隊し、陸上自衛隊幹部学校研究部長、陸上幕僚監部第5部副部長、防衛大学校幹事、第9混成団長、第4管区総監、第4師団長、陸上自衛隊幹部学校長(陸将)を歴任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%8B%E6%AD%A3%E5%BD%A6

 陸相の時は梅津さんと隣室に勤務して居た<(注57)>し始終懇談の機があったようだ。大体が講和の事は部下にも打開(うちあけ)られぬ大事であり、それに部外にも部内にも特に顧問を持たぬので、梅津さんの考えはそれだけ大きく阿南に影響したのではないかと思う、梅津さんは明敏な頭脳の持主であるが、阿南は頭は決してよくない。人柄、人を責めず自(みずから)を責めるそのところが、又武道に練達し勇のあるところが部下を惹きつけたので頭は梅津さんの比ではない<、との>。・・・

 (注57)「昭和9年(1934)、・・・陸軍士官学校の校舎として・・・建設された<建物>・・陸軍士官学校はその数年後に座間(相武台)・朝霞などに移転・・<に>昭和16年(1941)12月までに陸軍省・参謀本部などが・・・<移転>することになった。つまり、太平洋戦争時の陸軍の中枢部はここにあり、主要な作戦指導が行われていたのである。(注:戦時になると参謀本部の下に報道や補給部門が編入されて「大本営陸軍部」となる。)」
http://www.iwojima.jp/ichigaya.html
 建物の写真。「向かって左側に陸軍省、右側に参謀本部が入った(3階の右側の一部は教育総監部)。中央に大講堂があり、戦後、「極東軍事裁判」の法廷として使われた。」
http://jshian.jp/moijan/ikou/tokyo/ikou-tokyo-ichigaya.htm
 1970年11月の三島事件の場所でもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 もしこのコンビが戦局悪化後ではなく、戦争開始前、もしくは緒戦の段階で実現していたら、と思わせるものがある。」(187~189)

⇒言うまでもなく、戦局は、概ね杉山らの予定通りに進行していたわけです。
 分かるのは、杉山と東條との関係に比して、杉山と梅津、梅津と阿南との関係は極めて親しいものであったということであり、それ以上でも以下でもありません。(太田)

(続く)