太田述正コラム#12990(2022.9.11)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その28)>(2022.12.5公開)

 「・・・松平<は、>・・・尤も上奏の書きものには右のことはなく、全く書きものに出さず部下に知らさず申し上げた・・・<とも、高木に伝えている。>・・・
 書面にのこさなかったとなると、・・・それは、部下に知られてはならない、秘中の秘だったのだろう。・・・

⇒本土決戦で日本側がボロ負けすることなど、繰り返すけれど、当時の帝国陸軍の将官クラス・・参謀本部で言えば、部長クラス以上・・や参謀本部作戦部作戦課に関しては同課勤務の佐官クラス、にとっては常識の部類に属したと考えられるので、そんな常識的事実を、統帥大権保持者たる昭和天皇に奏上することが「秘中の秘」であるわけがないのであって、紙に記さなかったのは、その紙がそのままリークされ広がることを懼れたためだと思われます。(太田)

 梅津も、できれば敵に一撃を与え、より有利な講和をとは考えていただろう。・・・

⇒だから、そんなことを梅津が「考えていた」はずがないのです。(太田)

 この件は、海相の米内光政も聞いていたようで、上奏からまもない昭和20(1945)年6月14日、高木惣吉に対して<、その話をしている。>・・・
 この上奏については、昭和天皇もかなり衝撃を受けたようだ。
 梅津の上奏を聞いた時、「梅津がこんな弱音を吐くことは初めてゞあった」と述べている・・・。
⇒対英米開戦の前に昭和天皇が杉山参謀総長(当時)に南方作戦についての見通しを問いただした時に、それなりに軍事情勢に通じている第三者がいる場でしたが、杉山が正しく答えている(コラム#省略)
https://president.jp/articles/-/59998?page=2
ことからも分かるように、昭和天皇が、TPOをも勘案しつつ、質問をし続けておれば、そもそも梅津がわざわざ説明する必要はなかったのですし、梅津の話を聞いて「衝撃を受け」るようなこともなかったはずです。
 酷だと思われるかもしれませんが、昭和天皇に対しては、情けない、の一言です。(太田)
 
 梅津が大連へ出張していた昭和20(1945)年6月8日、昭和天皇臨席の御前会議において「今後採るべき戦争指導の基本大綱」が決定された。

⇒梅津のこの出張は、このような重大な御前会議・・しかも、参謀本部議案が審議された!・・への出席よりも重要だったわけであり、当然のことながら、それは、終戦が近いことを、両総司令官に伝達するためであったと想像されるところ、どこまで、梅津がこの二人に梅津(つまりは杉山ら)が抱いていた終戦のイメージを伝えたのか、興味があるところです。(太田)

 会議には梅津の代理として参謀次長河辺虎四郎が出席した。
 「大綱」の方針には、・・・七生尽忠<(注50)>(しちしょうじんちゅう)の信念を源力とし地の利人の和を以て飽く迄戦争を完遂し以て国体を護持し皇土を保衛し征戦目的の達成を期す。・・・<という>文言がある。

 (注50)七生報国は、良く知られた、楠木正成の最期の言葉、で、何度生まれ変わっても国の恩に報いる、という意味
https://gimon-sukkiri.jp/shichisho-hokoku/
だが、尽忠は「国家や君主に対して真心を尽くして仕えること。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%BD%E5%BF%A0-538406
という意味であるところ、「七生尽忠」は、その時だけ使われた四文字熟語である、ということになりそうだ。

⇒私なりにこの方針を真意を分かり易い形に書き換えれば、「何百年にも及ぶ秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達の思いに応え、天皇制と(沖縄と北海道を除く)本土だけは確保しつつ、杉山構想の概ねの完遂を期すべく最後の力を振り絞る」、といった感じでしょうね。(太田)

 これは一見すると強気の文章で、「徹底的に戦う」と読むこともできる。
 驚いた外務省では、栗原健<(注51)>がこれを書いた種村佐孝に真意を問い質した。

 (注51)1911~2005年。「1934年、國學院大學国史科を卒業。1935年、外務事務官として外務省に入省する。
 文書課に配属され、外交文書や電報類の整理に従事して以来、『日本外交文書』・『終戦史録』(1952年)・『日本外交年表並主要文書 1840-1945』(1955年)・『外務省の百年』上・下(1969年)の編纂や外交史料館の立ち上げ(1971年開館)に尽力した。
 外務省退官後も『日本外交文書』編纂委員・顧問、また日本国際政治学会名誉理事として後進の指導に当たった。また、外交文書の閲覧のために来訪する海外の研究者に対しても、懇切丁寧に対応してその研究を支援し続けた。
 以上の功績により、1979年には国際交流基金より「国際交流奨励賞」を授与されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E5%8E%9F%E5%81%A5

 種村さんは、あれは要するに、本土が安全なればもう戦争の目的は達したという意味を、自分は考えて書いていると言われる。・・・
 栗原は「それはあなた個人の意見か、それとも陸軍全体の意見か、それとも誰かの意図を体しているのか」と問うと、種村は、「自分は梅津参謀総長の意図を体して書いた」と答えたという。」(192~195)

⇒私は執筆したのは梅津本人であると考えており、恐らくはそれを浄書しただけの種村、は、その点だけはウソをついている一方で、梅津が種村に伝えたところの、限定的「真意」を、そのまま栗原に伝えたのでしょう。(太田)

(続く)