太田述正コラム#12994(2022.9.13)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その30)>(2022.12.7公開)


[一撃講和論について]

 「日本は、すでに一九四三年に入った段階から各地の戦局において目立った勝利を得られていない状況で、客観的にみれば、すでに敗北・降伏は避けられない状況でした。・・・
 当時、日本の指導層が目指していたのは、無条件降伏ではなく「一撃和平」でした。これは、有利な条件で講和を結ぶために、どこかで一度でも局地的な勝利を収め、少しでも有利な条件で講和交渉に入るという考え方です。・・・
 一九四四年の頭頃から、首相経験者などのいわゆる重臣と、昭和天皇の弟である高松宮宣仁(海軍大佐)らを中心とした皇族グループによる東條英機内閣の倒閣工作が水面下で進行します。
 こうした動きも、一般的には和平交渉を行うための動きととらえられていますが、実態としては戦局の挽回を目指して行われたものであったことが明らかになっています。」(手嶋泰伸(注54)「絶対に勝ち目のない対米戦争を、日本がだらだらと続けてしまった情けない理由–政府首脳がこだわった「一撃和平」」より)
https://president.jp/articles/-/52095?page=1
 「天皇や伏見宮たち陸海軍は<1944年7月に陥落した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 >サイパン島の奪回こそ諦めたが、戦争自体の継続では一致していた。・・・
 そのさい戦争終結構想として唱えられたのが「一撃講和論」である。
 その内容を端的に示すのが、陸軍大将・東久邇宮稔彦王の一九四四年七月一一日の日記の「わが海軍は、なお最後の一戦をやる余力があるから、陸海軍の航空戦力を統合して、アメリカ軍に一撃を加え、その時機に和平交渉をするのがよい。これがためには、陸海軍統帥部の一元化と航空戦力の一元化を、急速に実施しなくてはならない」という記述である(東久邇稔彦『一皇族の戦争日記』)。・・・
 内閣総理大臣・陸軍大将の小磯国昭は敗戦後の一九四九年、日米戦史編纂を担当していたGHQ(連合国軍総司令部)歴史課のヒアリングで「負け戦と云うことを承知している政府が、ここで直ぐ講和をすれば苛酷な条件に屈伏せねばならず、勝っているとのみ信じている国民は之に憤激して国内混乱のもとを為すであろう」、「今度会戦が起りましたならばそこに一切の力を傾倒して一ぺん丈でもいいから勝とうじゃないか。勝ったところで手を打とう、勝った余勢を駆って媾<(ママ)>和すれば条件は必ず幾らか軽く有利になる訳だと思ったのです」と回想している(佐藤元英・黒沢文貴編『GHQ歴史課陳述録 終戦史資料(上)』)。
 注目すべきは、東久邇宮や小磯の唱えた一撃講和論が、長いあいだ戦争に協力してきた国民の怒りを引き起こさないための選択であったこと、そして戦いの決め手が陸海軍の航空戦力であったことだ。」(一之瀬俊也(注55)「特攻に駆り立てた「一撃講和論」 採用された背景にあったものとは」より)
https://gendai.media/articles/-/69806

 (注54)1983年~。東北大文卒、同大院博士課程後期終了・同大博士(文学)。「日本学術振興会特別研究員、東北学院大学非常勤講師、福井工業高等専門学校一般科目教室教授を歴任。現在は龍谷大学文学部講師。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%B6%8B%E6%B3%B0%E4%BC%B8
 (注55)1971年~。九大文卒、同大院博士後期課程中退、国立歴史民俗博物館助手、九大博士(文学)、国立歴史民俗博物館助教、埼玉大教養学部准教授、教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E3%83%8E%E7%80%AC%E4%BF%8A%E4%B9%9F

⇒1943年以降、宮中や陸海軍は一撃講和を追求していた、との一之瀬や手嶋の主張の弱点は、一、リアルタイムの、陸海相や参謀総長・軍令部総長等の陸海軍首脳達に係る典拠を示していない・・東久邇宮は、仏留こそ7年と長いが英米には疎かったと思われ、引用日記当時は防衛総司令官だったが、明らかに杉山構想は教えられておらず、陸軍首脳の一人だったとは言い難い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E7%B7%8F%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8
・・こと、二、対英米(蘭)開戦から翌1942年初頭にかけての南方作戦(第一段作戦)における「一撃」に成功した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%96%B9%E4%BD%9C%E6%88%A6

頃にさえ英米(蘭)側において日本との講和機運などゼロだった(典拠省略)以上、日本側の不利が明白になっていた1943年以降において仮に(再)一撃がなったとしたとしても講和に英米(蘭)が応じるはずなど一層ないと考えない陸海軍首脳達がいたとは考えにくいこと、三、対英米(蘭)開戦時に、既にそれよりもはるか前から、陸軍の杉山達はもとより、軍令部総長の永野修身も、日本必敗との認識を抱いていた(杉山らについてはコラム#省略。永野についてはコラム#12991)にもかかわらず、その時点で一撃講和を唱えるどころか示唆した陸海軍首脳でさえ、一之瀬や手嶋が全く挙げることができないこと、だ。(太田)

(続く)