太田述正コラム#13008(2022.9.20)
<『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む(その5)>(2022.12.14公開)

 「・・・〔<実松>注〕この陸海両相の星ヶ岡茶寮会談がひらかれるにいたった経緯についてのべておこう。・・・
 昭和13年8月中旬、わが陸海軍主務者は会同し、・・・ドイツ案の第三条「締約国の一国が、締約国以外の第三国より攻撃を受けた場合においては、他の締約国はこれに対し武力援助を行なう義務あるものとす」を大幅にゆるめる<・・すなわち、義務付けない(太田)・・>ことを条件として、原則的に同意する態度を確認する。
 つまり、軍部としては、この「原則的同意」をドイツ側につたえる段取りだった。
 だが、山本五十六次官から・・・大きな疑問がなげかけられた・・・。
 その上、米内海相は、<本件を>・・・五相会議にはか<る>・・・べきであると<し>た。
 この米内発言<を>・・・海軍省軍務局第一課長岡敬純<(注5)>からの連絡で・・・知った陸軍省軍務局軍務課長影佐禎昭<(コラム#10273)>は、五相会議にかけたばあい、米内海相から反対されては大変と、あらかじめ板垣陸相より海相の了解をとりつけておくことを可とするとして、この会談がひらかれるはこびとなった。」(48~49)

 (注5)1890~1973年。海兵(39期)、海大(21期・首席)。「<海大卒業後は>フランス駐在<、>・・・軍令部勤務、海軍省臨時調査課長、ジュネーヴ会議全権随員、軍務局第一課長などの中央の勤務が多く、その間の海上勤務は潜水母艦「迅鯨」の艦長くらいである。なお、軍務局第一課長の時には、部下に大のドイツ贔屓といわれた神重徳が、上司の軍務局長には大のドイツ嫌いの井上成美がいた。
 1940年(昭和15年)の軍務局長就任と同時に、「陸軍が政策を掲げて海軍に圧力を掛けてくる。海軍はそれまで、それに対応出来なかった。どうしてもここで、陸軍に対応する政策担当者を作らなければならぬ。さもなくば、日本がどちらに持っていかれるかわからぬ」と発言し、軍務局を改編し第二課に国防政策を担当させた。この時第二課長に任命したのが、同郷かつ攻玉社の4年後輩の石川信吾である。岡は石川が二・二六事件の際予備役編入となるのを救ったという経緯もあった。強硬な対英米開戦論者だった石川を軍務局第二課長に充てる人事には、親英米派が多く、石川を異端視していた(通称は「不規弾」。一斉射撃の中で、あらぬ方向に飛んでいく砲弾、という意味)海軍部内からは猛烈な反対を受けるが、岡は強硬に押し通し、この頃から岡・石川の二人が海軍の政策を動かす役割を果たすようになった。この事は、岡は日米開戦派であり、親独派であった事を如実に物語るエピソードであると言える。この事から、戦後、木戸幸一が海軍内で最も対米開戦を強硬に主張した人物として名前を挙げた為、A級戦犯に指定された。
 その一方で、ハル・ノートを受け取った際には、あまりのショックから「これではいよいよ開戦のほかはない。今日までの苦心も、ついに水の泡である」と涙を流したとも伝えられている。
 嶋田繁太郎海軍大臣の辞任に伴い、海軍次官を辞任した沢本頼雄の後任として、繰上りの形で海軍次官に就任するが、東條内閣総辞職をうけて成立した小磯内閣の海相に就任した米内光政は、海軍次官については「岡を一夜にして放逐する」とし井上成美を次官とした。岡は鎮海警備府司令長官として中央から遠ざけられている。その後、1945年(昭和20年)6月20日に予備役へ編入された。
 太平洋戦争後、極東国際軍事裁判で終身禁錮の判決を受け服役。1954年に仮釈放されているが、その後は亡くなるまで公的な場所に現れる事は殆どなかった。・・・
 1958年以降、法務省によって行われた聞き取り調査に答えて、太平洋戦争の結果としてアジアの植民地が独立したと考えるのは自己満足に過ぎぬと指摘した。・・・
 生涯独身だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%95%AC%E7%B4%94
 石川信吾(1894~1964年)。海兵(42期・入学時120名中103番、卒業時117名中45番)、海大(25期)。「1931年(昭和6年)12月、軍令部参謀(第2班第3課)在任時に、大谷隼人名で森山書店から『日本之危機』を出版し、米国に対抗して日本の満蒙占領を強く主張。また<米国>との戦争は避けられないというもので、・・・海軍士官が著書を出版する場合海軍大臣の許可が必要であったが無許可で出版されたものである。
 1933年(昭和8年)10月には対米強硬策の意見書『次期軍縮対策私見』を海軍上層部に提出し、・・・独立国家間の軍備は均等であるべき<こと、と、>・・・超大型戦艦建造<、>を提言した。この私見は・・・艦隊派の支持を受け第二次ロンドン軍縮会議の方針となった。結局日本は会議から脱退することとな<る。>・・・
 軍令部参謀時代は内閣書記官長の森恪と談判し海軍予算三千万円を獲得している。これは越権行為であったが、黙認された。・・・1935年(昭和10年)10月から<欧州>等へ視察旅行を行い、ナチス・ドイツの伸張に感銘を受けて翌年に帰国し、軍備拡張の意見書『帝国ノ当面スル国際危局打開策私案』を提出したが、二・二六事件事件直後の海軍部内で、石川は「政治的に徒党を為し逸脱の行動多し」と危険視され、予備役編入になるところを、同郷で中学の先輩である岡敬純臨時調査課長の尽力により・・・<左遷>することで決着した。・・・
 1940年(昭和15年)9月、海軍大臣が吉田善吾から及川古志郎に交代した。及川は、海軍次官に沢本頼雄中将、軍務局長に岡敬純少将を配置した。同年11月には、軍務局第一課長に高田利種大佐、同第二課長に石川が任命された。石川の第二課長配置に人事局は反対であったが、再び岡軍務局長が押し切って実現させたものであった。これらの対米強硬派が中心となり、海軍国防政策委員会・第一委員会が組織され、海軍政策の作成が行われた。
 1941年(昭和16年)6月に、第一委員会は報告書『現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度』を提出した。その内容は、日独伊三国軍事同盟を堅持し、南部仏印に進駐し、米国の禁輸政策が発動された場合は直ちに軍事行動を発動するという趣旨のものであった。
 [<なお、この6月の>独ソ戦開戦後、<岡>軍務局長から石川大佐は「松岡外相が対ソ開戦説を唱えているから、良く話をしてくれ」と言われ<、>松岡外相の私邸を訪れた石川大佐が「ソ連と戦争すれば、<米国>が出てこないと言うわけではないでしょう。支那事変をこのままにして戦争をすれば、<米国>が適当な時期をつかんで攻めてくるのは知れきったことです。海軍は<米国>に備えるだけで精一杯なのに、ソ連を相手にせよと言われてもできるものじゃありません。対ソ開戦などとバカげた話はしないで下さい」と言った<ところ、>この日の松岡外相は、一つ二つ質問しただけで、大変におとなしかった<、という>。
https://blog.goo.ne.jp/oceandou/e/feacfd1671ddb7620409c8ffbd60b933 ]
 委員会を主導したのは石川と富岡定俊とされ、のちに石川は「(日本を)戦争にもっていったのは俺だよ」と発言している。なお中山定義は、開戦時の海軍省人事につき、沢本、岡、石川、藤井茂と<山口県出身の>同郷人が要職にあったことに「偶然にしては少し出来過ぎではあるまいか」と述べている。
 戦争中は第二十三航空戦隊司令官として豪州攻撃の任に当たった。司令官としての石川は有能で部下の人望も厚かったという。戦局の悪化に伴い高木惣吉の終戦工作を助けている。・・・
 吉田俊雄は、石川は長州内閣をつくるのが夢だったと聞いたと述べており、高木惣吉は、戦争末期に石川が寺内寿一を首班とする長州内閣成立に奔走していたと述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BF%A1%E5%90%BE

⇒杉山元は、「1912年(明治45年)に海軍軍令部員と共に、商社マンに扮してフィリピン・マニラに潜入。諜報活動を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
ことがあり、その後も海軍との接触に努め、海軍内に知人や「友人」を多数作っていたと想像されるところ、石川信吾は、杉山が海軍内で発掘し確保した海軍向け工作員だった、というのが私の見方です。
 そうとでも考えないと、対英米戦開始までに石川が海軍内外で行ってきた諸言動が、TPO的に杉山構想の遂行過程と完璧なまでにシンクロしていることの説明が付かないからです。
 もとより、石川に対しても杉山構想の全貌は明かされることはなかったはずです。
 石川が戦後、『真珠湾までの経緯』という回想録を出している、というか、出すことができた、のがその間接的な根拠です。
 岡敬純は、石川を通じ、杉山の掌の上で転がされていた、ということでしょう。(太田)

(続く)