太田述正コラム#13014(2022.9.23)
<『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む(その8)>(2022.12.17公開)

 「・・・東條内閣成立時の重臣会議 昭和16年10月17日午後1時開催・・・
 若槻 支那事変もすでに4年をついやしているのだが、いったい対米戦争は何年くらいかかると思っているのであろう。
 米内(光政) 海軍が日米戦わば勝つということは、太平洋を土俵として日米の両艦隊が戦えば勝てるということであって、いつ戦うかわからない、<持久>力はまた別論である。・・・

⇒米内は、(対英米戦開戦には消極的でありながら、)対英米戦での日本の勝利はありえないと答えるべきなのに、胡麻化した答え方をしている上、艦隊決戦についても、今やれば日本側が勝てるけれど、宣戦してから時間が経てば短期間で日本側が勝てなくなる、と言うべきなのに、ウソを言っています。
 杉山らは、海軍がこういう答え方、言い方をすることを知っていた、より的確に言えば、そういう答え方、言い方をせざるを得ないように海軍を追い詰めていき、それに成功していた、ということです。(太田)

 内大臣 このさい後継内閣の組織をだれにご命じになるかは、・・・自分は結論からいえば、東条陸軍大臣にご下命になるのがよいと思う。・・・
 東条陸相と・・・話をしてみたところ、陸軍といえども海軍の真の決意なくして日米戦争に突入することが不可能であることを、じゅうぶん承知している。
 しかし、・・・帝国国策遂行要領<(注11)>・・・もあり、そして海軍側の右決定に対する修正のはっきりした意向がない限り、これにむかって邁進するほかない、ということである。

 (注11)「1941年(昭和16年)9月6日第3次近衛内閣時に御前会議において決定された大日本帝国国策。また、同年11月5日東條内閣時に御前会議において再決定された国策(甲案乙案含む)もいう。
 1941年(昭和16年)8月の<米>対日石油輸出全面禁止を受け、<米・英>に対する最低限の要求内容を定め、交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、<米・蘭・英>に対する開戦方針が定められた。
 しかし、9月6日の御前会議において、昭和天皇は開戦に反対しこの決定を拒否、あくまで外交により解決を図るよう命じた。その際、以下の明治天皇の御歌が引用されている。
 「四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」
 一般的にこの歌は軍部も政府に協力して外交に努力せよという意味だと解されている。
 10月17日、東条英機を首班とした組閣にあたり、条件として白紙還元の御諚が発せられ、9月6日の決定が白紙に戻された。だが、東條は昭和天皇の眼前で、自らも参加して決定した帝国国策遂行要領を覆すことは不忠にあたるとの信念から、実際には白紙化は行われず、再検討という名目で、そのまま方針が引き継がれることとなった。11月5日、11月末日を交渉期限として引き続き外交交渉を行うとともに戦争の決意が盛り込まれた帝国国策遂行要領が御前会議で決定された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E7%AD%96%E9%81%82%E8%A1%8C%E8%A6%81%E9%A0%98

 すなわち、これによって事態をみるとき、陸海軍の真の協力はまだみられず、そして、御前会議においける重大な決定は怱卒の間に決定されているというのが実情である。

⇒池田信夫は、「この御製は1904年にロシアと国交断絶した御前会議のあと詠まれたもの<で、私は>昭和天皇<が>・・・日本が<対英米>戦争に勝てないことを知っていた<と見ている>が、・・・明治天皇が「これは朕の志でないがやむをえない」ともらして詠んだ歌だ、と<明治天皇の>側近が書いている<ところ、>・・・<この歌を引用した昭和天皇>の真意が会議の出席者に<は>理解できなかった」、と書いている
https://agora-web.jp/archives/1598697.html
けれど、一、昭和天皇は対英米戦には勝てないと思っていた、二、この時点での昭和天皇の真意が周りの人々には理解できなかった、は、前者は私が過去に累次指摘した(コラム#省略)ように、また後者は米内が書き残したところの木戸内大臣の(帝国国策遂行要領決定時に昭和天皇が条件付き対英米開戦を承認した旨の上掲の)発言から、間違いです。(太田)

 そうすれば、この事態の経過をよく知悉し、その実現の困難なことを最もよく身をもって痛感した東条に組閣を御命じになり、同時に陸海軍の真の協調と御前会議の再検討を御命じになることが、もっとも実際的な時局の収拾方法であると考える。・・・」(70、73、75~76)

⇒もちろん、木戸内大臣にそう言わせたのは、杉山/牧野、であるわけです。(太田)

(続く)