太田述正コラム#13018(2022.9.25)
<『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む(その10)>(2022.12.19公開)

 「・・・最高戦争指導会議(20・7・20)
 五巨頭、対ソ電につき談合・・・
 ・・・午後6時、首相官邸に参集する。
 集まったのは首相、海相、外相、両総長の5名、陸相は旅行中につき欠席した。・・・

⇒阿南は、旅行中であったことはさておき、次官の代理出席すらさせなかったのでしょうか。
 いかに、杉山元らが、ソ連への仲介要請を茶番だと見ていたかが良く分かるというものです。
 ところで、阿南は、札幌の第5方面軍司令官の樋口季一郎を訪問していた(コラム#10340)わけですが、どうして、米内や実松は、阿南の欠席理由を詮索しようとしなかったのでしょうね。(太田)
 原告アメリカ合衆国など対被告荒木貞夫など 供述書・・・
 私<、米内>の内閣が崩壊したのは、つぎの五理由によります。
一、当初から、私の内閣にたいする陸軍側の反感。
二、こうした陸軍側の態度は、終始つづいた。
三、七月初頭における、米内私邸にたいする襲撃未遂事件<(注13)>。・・・

 (注13)1940年の皇民有志決起事件(七・五事件)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E5%B1%B1%E6%AD%A3%E6%B2%BB

 〔<実松>注〕 <この事件は、>前田虎雄<(注14)>と影山正治<(注15)>を首謀者とする30人の極右による要人暗殺を企図したものである。

 (注14)1892~1953年。「南満州鉄道従業員養成所〔大正2年〕卒<、>大正5年まで満鉄運輸課に勤務。退職後、井上日召、本間憲一郎、木島完之らと支那第三革命を目指した動きに参加。また日本軍のためにも働く。12年帰国、15年津久井龍雄らの建国会に入るが上杉慎吉と合わず脱退、日本山妙法寺で得度。国家主義思想と自己完成の融合統一たる「皇道」という論を唱導。昭和6年上海に渡り、亜州大同連盟の結成に参与、翌年愛国勤労党中央委員となる。8年神兵隊事件を隊司令として指揮し、検挙。14年影山正治の大東塾顧問となる。15年独伊軍事同盟締結を期す大東塾のテロ事件の首謀者として再検挙されるが、無罪となった。戦後、亜細亜友之会を設立。」
https://kotobank.jp/word/%E5%89%8D%E7%94%B0%20%E8%99%8E%E9%9B%84-1654811
 (注15)1910~1979年。「国家主義者の影山庄平を父に持つ。國學院大學卒業。保田與重郎に親炙し日本浪曼派の影響のもと民族派としての右翼活動、論評、作歌を続けた。歌道や記紀に関して著書多数。・・・
 1933年(昭和8年)斎藤実首相らの暗殺を計画し神兵隊事件に参加し下獄する。・・・
 皇民有志決起事件<で>・・・禁固5年の実刑判決を受ける。しかし「再生不能性貧血症」のため一時危篤状態に陥り、翌1941年(昭和16年)刑の執行が免除された。
 1944年(昭和19年)11月に応召して<支那>大陸に出征し、華北で終戦を迎える。影山の父・庄平は1945年8月25日に代々木練兵場にて大東塾生13名と共に割腹自殺を遂げたが、影山がこれを知るのは帰国後の事であった。・・・
 1979年(昭和54年)5月25日、最後の活動として元号法制化を訴え・・・割腹の後、散弾銃により自決。・・・影山はその際に「一死似て元号法制化の実現を熱祷しまつる」と書かれた遺書を残していた。自決から12日後の6月6日、元号法は可決された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E5%B1%B1%E6%AD%A3%E6%B2%BB

 ・・・神兵隊事件・・・に連座した前田と影山は、米内内閣を目して、「維新阻止の最終的反動内閣」となした。
 かれらはドイツの勝利による国際情勢の変化などに刺激され、米内内閣をめぐる一連の現状維持勢力に一撃を加える「回天維新の神機が到来した」と判断する。
 そこで、かれらは第一の襲撃目標、米内首相などを暗殺することとした。
 だが、治安当局は、暴徒の計画を事前に察知し、まさに襲撃行動にうつろうとしたとき、かれらを一網打尽に検挙した。・・・

⇒影山正治のような真正右翼が日本から消えて久しいですね。(太田)

四、・・・軍務局長武藤章少将の積極的な反対。
五、七月十五日、陸相畑俊六大将の辞表提出。
 これを要するに、私の内閣が挂冠するにいたったのは、陸軍および他の軍国主義的かつ侵略的傾向の諸団体によって強制されたものであります。」(97、106、109~110)

⇒米内が、未遂に終わった「三」を米内内閣崩壊の理由の一つに挙げているのはおかしいですね。
 また、この供述書全体が陸軍悪者論で貫かれていることは、昭和天皇免責を図るために筆を曲げただけだと解したいところですが、文章上、陸軍を「軍国主義的かつ侵略的傾向の諸団体」にしてしまっているのは、いささか度が過ぎているのではないでしょうか。(太田)

(続く)