太田述正コラム#13020(2022.9.26)
<『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む(その11)>(2022.12.20公開)

 「・・・口供書の部分的説明の覚・・・

○昭和15年(1940年)1月16日、内閣総理大臣に任ぜられ、同年7月22日に願いによって本官を免ぜられた。<(注16)>

 (注16)「前の阿部内閣が瓦解した後、当初一部では陸軍大臣の畑俊六が後継首班に噂されていた。折しも第二次世界大戦が勃発しポーランドを難なく分割占領したナチス・ドイツの攻勢に触発されて、いよいよ日本でも日独伊三国同盟締結を求める声が高まりをみせつつあった中、これを深く憂慮した昭和天皇は陸軍からの首班を忌避し、むしろこうした風潮に抗するには海軍からの首班こそが必要だと考えていた。実は天皇には意中の人物がおり、その者の名を内大臣の湯浅倉平に自ら推挙したのである。海軍の良識派として知られ、その温厚な人柄とも相まって人望が厚かった海軍大将米内光政その人である。天皇の方から後継首班の条件について意見した例は過去にもあったが・・・、天皇が特定の人物の名をあげて推挙するというのはまったく異例のことだった。
 米内は組閣と同時に自ら現役を退いて予備役となった。現役の陸海軍大将に組閣の大命が下った例は他にも山県有朋、寺内正毅、山本権兵衛、加藤友三郎、東条英機があるが、彼らはいずれも現役のまま内閣総理大臣を務めており、組閣と同時に予備役というのは後にも先にもこの米内を除いて例を見ない。
 しかし米内は親英米派で日独伊三国同盟反対論者だったこと、近衛文麿らによる新体制運動を静観する姿勢を貫いたことなどにより、陸軍や親軍的な世論から不評を買う。特に畑ないし陸軍出身者に大命が降下すると確信していた陸軍部内は米内首班に激しく反発、これを「重臣ブロックの陰謀」と決めつけて非難した。米内内閣の倒閣運動は、その組閣と同時に始まったといえる。米内内閣発足直後に民政党の斎藤隆夫議員が行ったいわゆる「反軍演説」に過剰な反応を示してついに斎藤を議員除名に至らせたのがその嚆矢となった。
 欧州で始まった第二次世界大戦は、ポーランド作戦が終わると約半年にも及ぶ「奇妙な戦争」と呼ばれる不戦期に入っていたが、これが実質的に米内内閣の存続条件となった。しかし1940年(昭和15年)5月にナチス・ドイツのフランス侵攻が始まり、ドイツが破竹の進撃を続けて翌6月にはフランスを降伏に追い込むと、独伊への接近を企図する陸軍は倒閣の意図をいよいよ明確に表し始める。7月4日、陸軍首脳部は「陸軍の総意」として参謀総長の閑院宮載仁親王を通じて畑に陸相辞職を勧告、これを受けて畑は16日に帷幄上奏を行い単独で辞表を奉呈した。米内は後任の陸相を求めたが陸軍三長官会議はこれを拒絶、これで米内内閣は総辞職に追い込まれた。
 米内は退陣声明の中で「(前略)內外重要國務の遂行につき全力を舉げて努力し來たりたるも、陸軍大臣は近時の政情に鑑み辞表を提出したるにより(後略)」と、それが陸軍による倒閣に他ならないことを明確に述べているが、個人的には決して敵対する関係にはなかった畑陸相に対しては、その単独辞任が彼本人の意思ではないことをよく理解しており、その立場を最後まで崩すことはなかった。戦後極東国際軍事裁判においてA級戦犯被告となった畑がこの単独辞任について厳しく問われた際も、証人として2度にわたって出廷した米内は徹底して曖昧模糊な証言を繰り返して畑をかばい、検事を煙に巻いて畑を極刑から救っている。
 ・・・昭和天皇・・・は、・・・米内内閣が瓦解した際には木戸幸一内大臣に「米內內閣を今日も尚」信任していること、そして「內外の情勢により更迭を見るは不得止とするも、自分の氣持ちは米內に傳へる樣に」命じている・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%86%85%E9%96%A3

⇒「注16」の裏話的な部分は、引用第一段落は原田日記に、それ以外の部分は木戸幸一日記に、拠っているところ、どちらの日記も信用ができない(コラム#省略)上、「日本国内で・・・米内内閣の対応を米英に対する「弱腰」の表れとみなして批判する動きが強まった・・・浅間丸事件」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%96%93%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
に触れていないという問題もあります。
 私は、牧野伸顕以降の歴代の内大臣達は、ことごとく、牧野、つまりは杉山元、の意向に従って動いていたと考えているので、この時期に米内を首相にと取り計らったのは、杉山/牧野が、海軍に、陸軍と(陸軍が醸成したところの)世論の一体ぶりを直接肌で感じ取らせ、この潮流に逆らうことの不可能さを悟らせるためだった、と見ています。
 また、穿ち過ぎだと言われるかもしれませんが、米内の予備役入りも、米内が間違っても対英米開戦決定時に軍令部総長であることがないようにするために、杉山が、海軍内の誰かに、米内がその気になるように米内に対して悪魔の入れ知恵をさせたのではないか、とさえ見ているところです。(太田)

 ○組閣の当日、私にたいする陸軍側の感情は、おだやかでないものがあった。
 こうした感情は、組閣後もつづいたと思われた。
 〔<実松>注〕陸軍大将ならぬ海軍大将に、畑俊六ならぬ米内光政に組閣の大命が降下(昭和15年1月14日)したとき、「海軍の陰謀にしてやられた」と地団太ふんでくやしがった武藤章(陸軍省軍務局長)は、–いや、陸軍は、その憤懣を米内に向けるのであった。
 こうして、陸軍の倒閣運動のきざしは、はやくも米内内閣成立(1月16日)前後から看取された。
 内大臣木戸幸一<(注17)>は、「一月十五日 山口恭右<(注18)>氏来訪、陸軍方面陸相への優諚に関し面白からざる空気ある旨話あり。

 (注17)湯浅倉平内大臣が病気により6月1日に辞任し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B5%85%E5%80%89%E5%B9%B3
「有馬頼寧と共に「新党樹立に関する覚書」を作成し、近衛新体制づくりに関わった」木戸幸一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80
がその後任になったもの。
 (注18)不明。ミスプリか?

 一月十七日 山口恭右氏来訪、新内閣に対し陸軍並に右翼方面の動向は必ずしも楽観を許さざる旨話ありたり」と日記に書きとめている。
 なお、この「優諚」は、陸軍の態度を心配していた天皇の、「新内閣に協力してやれ」とのお言葉をいう。・・・
○七月中旬、陸軍省軍務局長武藤章は、首相官邸に内閣書記官長をたずね、こうした弱い性格の内閣では内外情勢の急激な変化に対応できるとは思われないから、よろしく近衛文麿公にあけわたすべきである、と提言した。
○7月5、6日ごろ、当時の陸相畑俊六は、部下を統制することができないという理由で辞職を申し出た。
 押問答のすえ、陸軍は三長官会議の結果、いまのところ出すべき陸軍大臣はないといって推薦しなかったため、内閣は崩壊のやむなきに立ちいたった。
○米内内閣における対内・外主要政策の骨子はつぎのとおり。
(イ)対内
 近衛公の提唱した国内新体制とかいうようなものには絶対に反対であり、あくまでも立憲的に行動することとした。
(ロ)対外
○昭和十四年(1939年)末以降、国内においては欧州の情勢に刺激されて米英を対象とする三国同盟の議が台頭してきたが、これには絶対に反対した。
○中国問題を解決する。
○欧州戦争の渦中にまきこまれることを避けて静観の態度をとり、みだりに妄動しない。」(113~116)

⇒畑俊六と武藤章には、杉山構想の全貌は明かされていなかったと私が見ていることは、過去におけるこの2人に係る私の記述ぶりから想像がつくと思います。(太田)

(続く)