太田述正コラム#13056(2022.10.14)
<渡邊裕鴻ら『山本五十六 戦後70年の真実』を読む(その6)>(2023.1.8公開)

 「のちに堀自身は、第一次上海事変について次のように述べている。
 平戦時公法の無視蹂躙、兵力乱用の修羅道である。戦果誇張、功名争ひの餓鬼道の展開である。さらに同僚排撃の醜悪なる畜生道である。一言にして上品に言ふても武士道の極端なる堕落である。斯様な場所で斯様な友軍と協同して警備に従事せねばならなかったのは自分の不幸な廻り合はせである<、と。>
 この第一次上海事変では、中国軍を退却させた日本の上海派遣軍司令官、白川義則<(注7)>陸軍大将が出陣の際の昭和天皇の意に従い、参謀本部の追撃指令を無視して戦闘を止め、五月には停戦協定が締結されている。」(94~95)

 (注7)「大臣在任中の1928年(昭和3年)6月4日、張作霖爆殺事件が起こる。田中首相は昭和天皇に対し、同年12月24日「矢張関東軍参謀、そして河本大佐が単独の発意にて、其計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」と河本大佐の犯行を認めた上で、関係者の処分を行う旨の上奏を行った。しかし田中はその後、陸軍ならびに閣僚・重臣らの強い反対にあった。白川は三回にわたって天皇に関東軍に大きな問題はない旨を上奏し、陸軍は軍法会議開廷を回避して行政処分で済ませるため、5月14日付で河本高級参謀を内地へ異動させたので、河本ら関係者の処分を断念。「この問題は有耶無耶に葬りたい」との上奏を行うこととなった。
 陸軍大臣を退任した白川は再び軍事参議官に親補され、1932年(昭和7年)1月18日に第一次上海事変が起こると、上海派遣軍司令官に親補されて出征する。同年2月25日の親補式において、白川は昭和天皇から「条約尊重、列国協調、速かに事件解決等」を指示され、さらに「上海から十九路軍を撃退したら、決して長追いしてはならない。3月3日の国際連盟総会までに何とか停戦してほしい。私はこれまで幾度か裏切られた。お前なら守ってくれるであろうと思っている。」と親しい言葉を賜った。これを聞いた白川は、はらはらと涙を流したという。白川はこの天皇の信頼に応え、同年3月3日に上海から十九路軍を一掃すると停戦命令を出し、参謀本部から追撃の指令を受けても、司令官の権限をもって停戦を断行した。スイスのジュネーブで行われていた国際連盟総会では、この白川の行動を評価する声が上がり、日本を危険視する国際社会の険悪な空気は好転した。陸軍は白川に対し激昂したが、天皇は「本当に白川はよくやった」と喜んだという。その後も、白川の果断な処置は続き、軍参謀や第一線指揮官の南京進撃論を退け、同年5月5日に停戦の正式調印を行なわれることが決定された。
 1932年(昭和7年)4月29日、・・・上海天長節爆弾事件<で>・・・重症<を負った白川は>」・・・5月26日、死去。享年65(満63歳没)。・・・昭和天皇より遺族に御製が下賜された。
 をとめらの雛まつる日に戦をばとゞめしいさを思ひてにけり
 その内容から陸軍は士気に関わるとして、御製の公表を阻んだとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%89%87
 「十九路軍<は、> 30年河南で国民政府により討逆第 19路軍として編成され,・・・陳銘枢(ちんめいすう/チェンミンシュー)、蒋光鼐(しょうこうだい)、蔡廷鍇(さいていかい/ツァイティンカイ)らが中心で、・・・第1次上海事変の際,日本軍との衝突を回避しようとする蒋介石の意に反して,上海の北停車場その他で日本軍と衝突し,以後1ヵ月,蔡廷鍇総指揮代理のもとに日本軍と激戦を交え,蔡はこれにより抗日英雄とたたえられた<が、>・・・福建(ふっけん/フーチエン)省に移駐<させられ、>中国共産党軍討伐を命じられた。しかし、中国共産党軍は戦闘を避け、十九路軍も内戦停止・抗日第一を主張して、33年福建人民政府に参加・・・したが,蒋介石軍のため壊滅し,34年1月七路軍に改編されて河南省に移駐させられ,十九路軍の呼称も消滅した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E4%B9%9D%E8%B7%AF%E8%BB%8D-76901
 「上海天長節爆弾事件<について。>・・・
 朝鮮半島からの日本による支配を駆逐する事を目的とする大韓民国臨時政府の内務総長・金九は、第一次上海事変での格納庫や軍需倉庫の爆破による後方攪乱、本庄繁と内田康哉の暗殺計画などを策していたが、いずれも失敗に終わっていた。そんな中、この攻撃実行の恰好の機会に、自ら志願した尹奉吉を攻撃の実行犯として差し向ける事にした。またこの攻撃計画には中華民国行政院代理院長(日本の内閣総理大臣代理に相当)であった陳銘樞などが、朝鮮人側の要人であった安昌浩に資金を提供し協力していた。これは当日の天長節の祝賀会場への入場を中国人は一切禁止されていたため、日本語が上手で日本人に見える実行犯を使うことにしたからである。
 金九は、上海兵工廠の庫長と第19路軍情報局長を兼任していた金弘壹(中国名・王雄)に水筒型と弁当型の爆弾各1個の製造を依頼した。これは日本の新聞が水筒と弁当だけを持参して式に参列するように告知したからであった。金弘壹は、当時鍛冶屋で第19路軍後援会として兵器製造に携わっていた<支那>人技師の向佽濤と協力して爆弾の製作に取り組んだ。
 先の1月に大韓民国臨時政府傘下の抗日武装組織韓人愛国団の団員であった李奉昌が、東京で昭和天皇を暗殺しようとしたが、爆弾の威力が弱く、失敗に終わっていた(詳細は桜田門事件を参照)。その教訓から、十数回の実験を繰り返し強力な爆弾を作り上げた。
 4月29日午前10時に始まった式典は、午前11時40分ごろ天長節を祝賀するため、21発の礼砲が発射され、海軍軍楽隊の演奏で君が代が斉唱された。途中で雨が降ったため、群衆がざわつきはじめた。同時に式台の右後ろのラウドスピーカーの音がしなくなり、私服で警戒していた5~6人の軍人が修理しようと動いた。この瞬間に尹は群衆を抜け出し、水筒型の爆弾を式台に投げつけた。尹の目的は「植田謙吉、白川義則の両司令官の殺害」であったので、それ以外の人間を巻き込まないよう威力の大きい弁当型は使われなかった。
 この爆発で、上海居留民団行政委員会会長の医師河端貞次が即死、第9師団長植田謙吉中将、第3艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将、在上海公使重光葵、在上海総領事村井倉松、上海日本人居留民団書記長の友野盛が、それぞれ重傷を負った。重光公使は右脚を失い、野村中将は隻眼となった。白川大将は5月26日に死亡した。犯人の尹は、その場で自殺を図ろうとした所を上海海軍特別陸戦隊の後本兵曹により取り押さえられ、上海派遣軍憲兵隊により検挙、軍法会議を経て12月19日午前7時に金沢刑務所で銃殺刑となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E5%A4%A9%E9%95%B7%E7%AF%80%E7%88%86%E5%BC%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒堀は、海軍の第3艦隊の同僚達のことではなく、陸軍を非難しているわけですが、張作霖爆殺事件の際の白川ならいざしらず、第一次上海事変の際の白川や白川が率いた陸軍部隊を、このような、最も汚い言葉で罵るのは、一体、堀が、何を基準にしているのかは知りませんが、常軌を逸しており、精神を病んでいたのではないか、とさえ思います。
 むしろ、問われるべきは、海軍が、どうして、こんな堀を、この時点まで、重要なポジションで使い続けていたのか、でしょう。(太田)

(続く)