太田述正コラム#13058(2022.10.15)
<渡邊裕鴻ら『山本五十六 戦後70年の真実』を読む(その7)>(2023.1.9公開)

 「・・・昭和6年(1931)12月に大角岑生<(注8)>が海軍大臣となっ・・・た。・・・
 軍縮条約にはほとんど関係せず、艦隊派と条約派の抗争にも局外中立の立場だったのが功を奏し、海軍大臣のポストを得たとされる。

 (注8)おおすみみねお(1876~1941年)。「愛知県中島郡三宅村(現・稲沢市平和町)で、農<家>・・・の長男として生まれる。・・・海軍兵学校に入校。明治30年(1897年)24期を3位の成績で卒業。・・・海軍大学校<卒。>・・・明治42年(1909年)より2年間ドイツに駐在<。>・・・大正7年(1918年)から2年間、フランスに滞在した。・・・<その際、>パリ講和会議に随員として列席<。>
 大正11年(1922年)5月、軍務局長、12年(1923年)12月、第3戦隊司令官、14年(1925年)4月、海軍次官、昭和3年(1928年)12月、第二艦隊司令長官と、連合艦隊・海軍省の重要ポストを交互に経験した。
 ・・・次官として大角が補佐した大臣は財部彪大将だった。大角は軍縮条約にまったく関与していないため、条約派と艦隊派の対立には関心がなく、次官時代はワシントン条約受諾はやむを得ないとする空気があったため、大角自身も問題にしていなかった。
 昭和4年(1929年)の定期異動で横須賀鎮守府司令長官に任命され、2年間勤めた。・・・
 昭和6年(1931年)12月、第2次若槻内閣が総辞職し、前任の安保清種が慣例に従って横須賀鎮守府長官の大角を犬養内閣の海軍大臣に指名した。
 艦隊派と条約派の抗争が続き、強硬な条約派だった軍令部長・谷口尚真の更迭を決めた矢先に、安保は大臣を大角に譲らざるを得なくなり、後任人事を託した。
 大角は、陸軍参謀総長に閑院宮載仁親王元帥が就いていることを勘案して、伏見宮博恭王大将を軍令部長に推した(陸軍が皇族総長の威光で海軍を圧迫する可能性を封じる意図もあったという。昭和7年(1932年)に伏見宮は元帥となり、東郷平八郎の死後は海軍最長老となる)。これが後に自らを窮地に追い込むことになる。
 着任から半年後、首相・犬養毅が五・一五事件で海軍将校に暗殺されたため、大角は引責辞任を余儀なくされた。現役海軍将校が徒党を組んで首相を暗殺した際の海相ということを考えれば予備役になってもおかしくなかったが、世論に暗殺犯への同情が強かったこともあり現役にはとどまることができた。
 犬養の後継に首班指名されたのが海軍の重鎮である斎藤実大将であったことと五・一五事件の収拾を図る必要があったことから、大角はあえて長老の岡田啓介大将を後任に指名した
 しかし、岡田には定年退職(65歳)の期限が迫っていた。これが計算ずくなのかは不明だが、岡田の定年に合わせて大角は昭和8年(1933年)1月に海軍大臣の座に復帰した。この復帰により、大角は後世から数々の批判を受ける決断を重ねる。
 まず強硬な艦隊派の領袖であった軍令部次長・高橋三吉が、戦時のみ軍令部に移譲されていた海軍省の権限の一部を平時にも軍令部に引き渡すよう要求してきた。当然ながら官僚気質の大角は、既得権を放棄する気はない。
 しかし、局長部長や次官次長の激論は平行線で終わるものの、大臣・部長級の議論となれば、大角の相手は皇族である伏見宮である。部下たちの議論は平行線が続き、最高責任者同士の交渉に持ち越された。
 伏見宮の威光を前に、大角は艦隊派(軍令部側)の要求を次々と認めていく(伏見宮はこの件について「私の在任中でなければできまい。是非やれ」と部下を督励しており、皇族の威光で押せば大角は折れると読んでいたようである)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A7%92%E5%B2%91%E7%94%9F

 しかし・・・海相就任後の大角は、・・・艦隊派に接近。
 条約派と目される主に軍政畑(海軍省系)の提督たちを、次々に予備役に編入し、海軍から一掃するという「大角人事」を遂行した。」(97~98)

⇒太田久元は、「 大角人事<は>・・・その私心や保身本能にも彩られたものだった。・・・彼は、軍令部長の伏見宮をかついだ加藤<寛治>や末次<信正>の反感を買わずに、海相の地位を保持する思惑もあってロンドン軍縮会議をリードした<条約>派の粛清人事を断行した。しかし、加藤らのゆきすぎを危惧して自分なりの権力と権威にこだわる伏見宮の憂慮を見て、今度は<艦隊派の>加藤・末次一派の整理を図<った>」
https://pdmagazine.jp/today-book/book-review-221/
と指摘しており、私も同感です。
 但し、「その結果・・・、軍政軍令畑いずれの流れにおいても、日本の対外ビジョンと陸軍に対抗できる戦略をそれなりに考える骨太の人材が海軍から払底し<、>・・・海軍<が>・・・独自政策を形成する能力の欠如をもたらし、陸軍に追随するだけの小粒な海軍官僚を生み出してしま<うことで、>・・・1933年から日米開戦まで、海軍の状況がおかしくなった・・・責任は大角海相にあるといってよい」(上掲)、には不同意です。
 私の見るところ、艦隊派、条約派、中間派、全てに関し、この時期までに、既に、「日本の対外ビジョンと陸軍に対抗できる戦略をそれなりに考える骨太の人材」は払底するに至っていたからです。(太田)

(続く)