太田述正コラム#13060(2022.10.16)
<渡邊裕鴻ら『山本五十六 戦後70年の真実』を読む(その8)>(2023.1.10公開)

 「・・・昭和11年(1936)12月1日、山本は広田弘毅内閣の海軍大臣となった永野修身からの要請を受けて海軍次官となった。
 その翌年、林銑十郎内閣で海軍大臣となったのは、山本と肝胆相照らす仲の先輩、米内光政。
 山本は引き続き次官を引き受ける。
 米内大臣–山本次官のコンビは第一次近衛内閣にも引き継がれ、米内・山本時代は2年半を超えた。
 近衛文麿内閣のとき、海軍少将の井上成美が軍務局長として2人を支え、この3人は当時「海軍三羽ガラス」<(注9)>とも称された。・・・

 (注9)「山本五十六<は、>・・・艦の勤務と並行して、海軍砲術学校普通科学生として16か月間、海軍水雷学校普通科学生として4か月の教育を受けた。卒業後、駆逐艦「春雨」、装甲巡洋艦「阿蘇」乗組みを経て三等巡洋艦(練習艦)「宗谷」に配属となる。「宗谷」では37期少尉候補生訓練を行い、井上成美、草鹿任一、小沢治三郎、鮫島具重を指導した。
 1909年(明治42年)に<米国>に駐在、1911年(明治44年)に海軍大学校乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政と盟友になる。井上成美によれば兵器学講座担当であったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD (※)

⇒「注9」から、この3人の因縁が分かります。(太田)

 昭和14年<、>・・・山本は陸軍や国会議員、海軍の一部強硬派などから三国同盟に反対する「政敵」として恨みを買っていた。
 また、当時の実松譲海相秘書官によれば、右翼による「暗殺計画」が7月15日に発覚するほどまでに敵視されていた。・・・
平沼内閣<が>・・・「欧州情勢は複雑怪奇」との声明を発して、<1939年8月>28日に総辞職し<、>・・・新たに組閣した阿部信行内閣では、山本と海軍兵学校同期の吉田善吾が海軍大臣に就任した。
 吉田の性格をよく知る山本は、そのまま次官として海軍省にとどまり、日独伊三国同盟や日米戦争へとつながる動きを阻止したいと要望したという。
 だが、こうした山本を、・・・米内は暗殺の危険から・・・救うため、<この>山本を・・・連合艦隊司令長官・・・へと転出されたと言われている。
 山本の・・・着任2日後の9月1日、・・・第二次世界大戦<が勃発した。>・・・
山本は、・・・三国同盟締結やアメリカの石油全面禁輸などの情勢を見て、・・・対米英蘭等の数か国を相手にした戦争を想定し、その作戦計画立案に取り掛かる。・・・

⇒山本は、必敗の作戦計画立案に取り掛かった時点で軍人失格です。
 どうして、彼は、「対米」抜きの戦争を想定することさえしなかったのでしょうか。(太田)

 昭和15年(1940)11月に海軍大将に進級した山本は、海軍省に出頭し、及川海相に対して対米英戦争について自らの意見を直接述べた。・・・
 山本は、漸減邀撃(迎撃)作戦<(注10)>による「戦艦主兵」の艦隊決戦を中心にしてきた海軍の作戦方針を批判し、そもそも米英との戦いではこうした艦隊決戦は起こらない可能性があることを指摘。

 (注10)「優勢な<米>海軍艦隊が太平洋を西進してくる間に潜水艦などによって徐々にその戦力を低下せしめ、日本近海に至って、互角の戦力となった主力艦隊同士の艦隊決戦で勝利を収めるとする日本海軍の対米戦基本計画」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E4%B8%8A%E6%94%BB%E6%92%83%E6%A9%9F

 そして、艦隊決戦の作戦では「図上演習」を何回やっても、一度も米艦隊に大勝したことはないのだから、日米戦争は避けるべきだというならいざ知らず、こんな作戦を頼りに米海軍と決戦しろと言われても、連合艦隊司令長官としてはとてもできないと言う。
 では、どうしたらよいのか。・・・
 開戦と同時にアメリカ海軍の主力を叩き、立ち直れないほど士気を砕いてしまうという作戦である。
 それは、自らが育て上げた航空兵力を投入する攻勢作戦でもあった<(注11)>。」(120、123、125~126、129~131)

 (注11)「<米国>は、経済恐慌からの立て直しの一環として建艦計画もその主要な柱の一つとしており、日本に数倍する建艦をスタートさせた。1934年の第一次ヴィンソン案こそ条約保有枠を満たす程度の比較的小規模なものだったが、1938年に無条約時代最初の計画として成立した第二次ヴィンソン案は海軍力25%増強を謳い、戦艦3隻と航空母艦1隻等の増強を決めた。既存計画と合計するとその規模は日本の4倍にも達するものであり、想定以上に過激な反応を見た日本は新たな対抗手段を求められた。
 1939年、当初予定から1年繰り上げて第四次海軍軍備充実計画が策定され、戦艦2隻、航空母艦1隻等80隻の建造を開始した。この計画では<米国>の建艦に互することの困難さを認める兆候が早くも現れており、量的な対抗は不可能と考えられ始めていた。
 だが<米国>は手を緩めなかった。折から第二次世界大戦が勃発したこともあり、1940年の第三次ヴィンソン案ではさらに海軍力25%増強を目指した。当案は議会の査定で11%増強に抑制されたが、それでも戦艦2隻と航空母艦3隻等を追加するもので、対抗上日本も第五次海軍軍備充実計画の策定で戦艦3隻、大型巡洋艦2隻、航空母艦3隻等第三次と第四次を合計したものにほぼ等しい大計画を立案し1942年からの着手を目指した。そして1940年7月、ドイツのフランス攻略を受けて発表された最大の建艦計画が日本を震撼させた。両洋艦隊法、スターク案と呼ばれた同計画は戦艦7隻、大型巡洋艦6隻、航空母艦18隻など216隻、海軍力実に70%増強を目指すもので、当時の連合艦隊総力に匹敵するという膨大な計画は、もはや日本の追随をまったく許さなかった。対抗案として1944年スタートの第六次海軍軍備充実計画が検討され、戦艦4隻、大型巡洋艦4隻、航空母艦3隻などの建造を構想してはいたが、第五次計画の実現さえ危ぶまれる情勢の中、その実現はほとんど不可能と思われた。急速に開き始めた日米間の戦力差に危機感を抱いた日本では、戦力比が優位なうちに開戦を目指す論が勢いを増し始める。着手時期の関係で1941年には一時的に日米戦力比は対米8割を超えるまでに改善すると見込まれていたからで、一連の流れは太平洋戦争開戦の少なくとも一因を担ったと評されている。特に「翔鶴」「瑞鶴」2隻の正規空母の戦力化時期は、12月という開戦時期を決定する直接の動機の一つとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E8%89%A6%E7%AB%B6%E4%BA%89

⇒米大西洋艦隊に手出しは出来ず、また、米本土上陸作戦や米本土爆撃作戦で、米国の造艦、造軍用航空機能力(「注11」参照)を粉砕することを考えもしなかったというのに、米太平洋艦隊に大打撃を与えることに何の意味があるのか、また、仮に大打撃を与えることに成功したとしても、そんなことで米海軍軍人達、ひいては米国民の「士気を・・・立ち直れないほど・・・砕いてしまう」ことがどうして可能なのか、など、健常な子供なら分かる程度の理屈が、山本、ひいては当時の海軍上層部の大部分、には分からなかったというのですから、当時の海軍上層部は、自閉スペクトラム症の発達障害者
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_develop.html
集団であった、と言っても決して過言ではないのではないでしょうか。(太田)

(続く)