太田述正コラム#13070(2022.10.21)
<渡邊裕鴻ら『山本五十六 戦後70年の真実』を読む(その13)>(2023.1.15公開)

 「・・・山本のあとを継いだ古賀峯一<(注20)>長官は、・・・次のような手紙を堀宛てに書いている(昭和18年12月10日付)。

 (注20)みねいち(1885~1944年)。海兵34期、海大15期。「当時の帝国海軍の大勢を占めていた大艦巨砲主義論者ではあったものの、対英米条約協調派の1人であり、ロンドン海軍軍縮会議の際は海軍省先任副官を務め、山梨勝之進、堀悌吉、下村正助などと協同して暗殺される覚悟で条約締結に尽力。米内光政・山本五十六・井上成美などとも親しく、井上は古賀の事を「非常にものの判断の正しい人」と高く評価していた。また、山本や堀とは個人的にも親しかった。
 1937年(昭和12年)12月1日、軍令部次長。1939年(昭和14年)10月21日、第二艦隊司令長官に親補される。・・・1941年(昭和16年)9月1日、支那方面艦隊司令長官に親補される。12月、太平洋戦争開戦。1942年(昭和17年)5月1日、海軍大将に親任される。11月10日、横須賀鎮守府司令長官に親補される。1943年(昭和18年)4月21日、前任の山本五十六大将の戦死に伴い、連合艦隊司令長官に親補される。・・・
 パラオ大空襲(1944年(昭和19年)3月30日 – 31日)のさなか、旗艦・武蔵からパラオの陸上に移っていた連合艦隊司令部は、急遽パラオからダバオに飛行艇で移動することとなった。しかし、古賀の搭乗していた飛行艇は途中で消息を絶ち、3月31日付で殉職と認定された(海軍乙事件)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E5%B3%AF%E4%B8%80
 「海軍乙事件とは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)3月31日、連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将が搭乗機の遭難により行方不明となりその後殉職扱いとなった事件および、古賀大将に随伴した参謀長福留繁中将が搭乗機(古賀大将搭乗機とは別機体)の不時着によりフィリピンゲリラの捕虜となった事件。この事件の際に福留中将が保持していた日本軍の最重要軍事機密文書が<米>軍に渡った。・・・
 行方不明となった一番機は残骸等発見されないまま古賀以下の司令部要員7人を含む全搭乗員は「戦死」でなく「殉職」とされたが、これは嶋田繁太郎海軍大臣が、古賀の行動を前線からの逃走と批判し、戦死ではなく「殉職」扱いにさせたためである。古賀の殉職はすぐに国民には知らされず、同年の5月5日に発表され、古賀は元帥府に列せられ元帥の称号が与えられた。なお、嶋田は戦後になって「(古賀の殉職を)戦死に直せないか」と復員局に問い合わせたが、認められなかった。
 一方、二番機はセブ島沖に不時着し、搭乗していた連合艦隊参謀長福留繁中将以下の連合艦隊司令部要員3人(ほか、作戦参謀の山本祐二大佐、通信長の山形掌)を含む9人は泳いで上陸したが、ゲリラの捕虜となり、1944年(昭和19年)3月8日に作成されたばかりの新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書といった数々の最重要軍事機密を奪われた。・・・
 先の山本五十六長官搭乗機が撃墜された事件(1943年(昭和18年)4月18日)を「海軍甲事件」と呼ぶことから、本件は「海軍乙事件」と呼ばれた。・・・
 福留は海軍上層部の擁護もあり、軍法会議にかけられることも、予備役に退かされることもなく、第二航空艦隊司令長官に着任し、海軍内の要路に留まった。福留は、けっきょく事件直後からその最期まで軍機を奪われたことを認めようとはしなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E4%B9%99%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 福留繁(1891~1971年)。海兵40期(8番)、海大(首席)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%95%99%E7%B9%81

 <(引用始め)>ソロモン・ニューギニアの様な大きな島では何としても陸軍が本気でやって呉れぬと艦隊だけでは何ともならぬ。(…)「アルメー(陸軍)」は依然本気でない(…)「アルメー」の飛行機は殆んど飛べるを聞かぬ。「マリーヌ(海軍)」一手で敵の陸海軍機を引受けて居る、(…)「アルメー」の飛行機が実戦に出ないなら人も物資も海軍に渡すべし(…)一笑には出来ぬ心理状態也。<(引用終り)>」(216)

⇒堀は古賀のフランス駐在武官としての先輩でもあり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%82%8C%E5%90%89 及び、上掲
だからこそ、手紙の中でフランス語を使ったのでしょうが、陸軍は、翌1944年に大陸打通作戦とインパール作戦を計画しており、太平洋正面は、気の毒ながら、しばらくの間は、海軍に出血遅滞作戦を続けてもらえばそれで足りると考えていたのでしょう。
 そういったことを想像する能力が古賀にはなかった、ということでしょう。
 また、古賀の最期が、山本以上に無様なものになったことも、古賀の自業自得の感があります。
 その古賀は、海兵の成績も海大の成績もパッとしなかった(古賀のウィキペディア)というのに、どんな取り柄で彼が引き立てられたのか、少し調べた範囲では分かりませんでした。
 もっとも、海大首席だった福留の無能、卑劣さも「注20」だけからも明らかであることから、要は、海軍の人事も教育も無茶苦茶だった、ということになりそうです。(太田)

(続く)