太田述正コラム#13080(2022.10.26)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その4)>(2023.1.20公開)

 「・・・陸軍は伝統的に統帥大権については、専ら参謀総長のみが責任を負い、編制大権については陸軍大臣のみならず参謀総長も責任を負うものと解していた。

⇒海軍に比して陸軍ではいかなる理由に基づきいかなる経緯で統帥担当部局の権限が強かったのか、更に、そもそも、どうして、(大久保亡き後の日本の事実上の最高権力者であり続けたと私が見ているところの)山縣有朋は、海軍よりも陸軍により強い関心を抱き続け、かつ、その陸軍における統帥担当部局の権限を強いものにしたのか、を、工藤もそうですが、これまで誰も本格的に究明しようとしなかったのは不思議でなりません。(太田)

 海軍省と海軍軍令部間にまたがる業務について、その起案者、商議者、上奏者、実施者を定めたのが省部互渉規定だった。・・・
 日露戦争開戦時、連合艦隊の佐世保進発を命ずる大命(明治37年2月5日)が伊藤祐亨海軍軍令部長からではなく、山本権兵衛海軍大臣から発せられた事実は、海軍省の優越を示していた。
 当時の省部互渉規定には、「軍機戦略に関し、軍艦及軍隊の発差を要する時は、軍令部長海軍大臣に商議し、部長案を具し、上奏を経て大臣に移す」と定められていた。
 条約を締結するのは、憲法第13条による天皇の大権であり、国務大臣の輔弼による事は明確であるが、軍縮条約は兵力量(常備兵額)を規定するため編制大権に関連するため、ワシントン会議においては、海軍省が海軍部内の主務官庁となって軍令部の意見を「参考」にしつつ事務を処理した。・・・
 ところが統帥権干犯問題が惹起するに及んで、海軍軍令部側は憲法の軍事大権について、<新たな>見解を採るようになった。・・・」(86~87)

⇒その時の軍令部長は加藤寛治だったわけですが、以下、私の仮説を申し上げると、彼が「1907年(明治40年)1月から8月まで<当時陸軍大将であった>伏見宮貞愛親王に随行し<英国>に出張し<た>」こと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%AF%9B%E6%B2%BB
その伏見宮貞愛親王は、「1910年(明治43年) 英国へ出発<し、>途次、上海の東亜同文書院を見学<している>」こと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%84%9B%E8%A6%AA%E7%8E%8B
から、日蓮主義者で島津斉彬コンセンサス信奉者であったと思われ、その子で伏見宮家を継いだ伏見宮博恭王は、ドイツの兵学校と海軍大学で学んだため、「日本の海軍兵学校は「期外」であ<ったけれど>、海軍史家の野村実<(注5)>は「日本海軍は明らかに、博恭王を海兵十八期生として待遇していたわけである。」と述べてい<て、現に、>博恭王の進級は、海軍中尉進級から海軍大佐進級まで、兵18期クラスヘッドの加藤寛治と同時であった(海軍少将進級は、博恭王が大正2年8月、加藤が大正5年12月)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E6%81%AD%E7%8E%8B
であったところ、やはり、博恭王も、その父同様、日蓮主義者で島津斉彬コンセンサス信奉者であったと思われるのであって、加藤もまた、この父子との交流を通じて日蓮主義者にして島津斉彬コンセンサス信奉者になったと想像され、だからこそ、加藤は、「ワシントン会議には首席随員として赴<いた際>、ワシントン海軍軍縮条約反対派であったため、条約賛成派の主席全権加藤友三郎(海相)と激しく対立<した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%AF%9B%E6%B2%BB
のですし、にもかかわらず、加藤の博恭王との親密な関係から、「ワシントン軍縮条約後の人員整理(中将は9割)で、“ワンマン大臣”と呼ばれた加藤友三郎<でさえ(太田)、>加藤寛治を予備役に入れず、逆に軍令部次長に据え<ざるをえなかった(太田)>」(上掲)のである、と。(太田)

 (注5)野村實(1922~2001年)。海兵71期(次席)。「空母「瑞鶴」、戦艦「武蔵」乗組、軍令部第1部付(作戦記録係)で太平洋戦争を経験、海軍兵学校教官で終戦を迎える。
 終戦後は復員庁で極東国際軍事裁判海軍被告人弁護事務を担当。海軍大尉の経歴のため公職追放となる。その後防衛庁防衛研修所(のち防衛研究所)で、戦史室戦史編纂官として『戦史叢書』の編纂に従事する(この作業に前後して慶應義塾大学大学院文学研究科に出向・・・)。1984年3月 慶應義塾大学 文学博士 論文の題は「太平洋戦争と日本軍部の研究」。
 1979年(昭和54年)防衛研修所第2戦史研究室長。1983年防衛大学校教授。その後名古屋工業大学教授、愛知工業大学客員教授、軍事史学会会長などを務め<る>・・・。
 著書『日本海海戦の真実』では、秋山真之の作戦上での貢献に異論を唱えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E5%AE%9F

(続く)