太田述正コラム#13092(2022.11.1)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その10)>(2023.1.26公開)

 「・・・井上<は、>・・・昭和10年・・・11月15日付で少将進級と同時に・・・横須賀鎮守府・・・参謀長に就任した。・・・
 <その>後に、米内光政中将(のち大将)が司令官として着任した。
 ここに米内と井上のコンビが誕生することになる。
 この横鎮で培った両者の信頼関係が、後年の終戦工作につながった。・・・
昭和7<(1932)>年、五・一・五事件発生直後に軍務局第一課長に就任した井上は、同事件に触発されて陸軍内からも同様の事件を起こす可能性があると考えていた。
 そのため・・・米内長官の承認を得て、<「有事」の際の>陸戦隊(1個大隊)の編成<等を>・・・秘密裏に準備した<ほか、「平時」であるにもかかわらず、>・・・海軍省構内の東京海軍無線電信所に小銃を配備し、また海軍省には戦車一台を配置した。
 井上が鎮守府付に<将来の参謀長就任含みで>赴任した11日目の昭和10<(1935)>年8月12日昼、陸軍省内の軍務局長室で、永田鉄山少将が皇道派の相沢三郎中佐に刺殺されるという驚愕すべき事件が発生した。
 井上が住む官舎の正門は、横須賀海軍工廠総務部長の山下知彦<(注16)>大佐・・・の官舎の門と向かい合っていた。

 (注16)1891~1959年。海兵40期、海大24期。「高知市に生まれ<、>・・・山本五十六夫人の礼子は従妹。山下源太郎の長女・・・と結婚し山下家の養嗣子とな<り、>米沢中学を経て<海兵卒。>・・・造兵監督官として英国出張。滞英中に当地で開催されたロンドン海軍軍縮会議に参加している。
 1931年(昭和6年)2月に帰朝し、・・・8月には養父の死去に伴い襲爵した。艦政本部員、呉海軍工廠総務部員を経て、1933年(昭和8年)5月、大佐へ進級。この進級は海兵同期生のうち、首席の岡新や山口、宇垣より半年遅れたが、福留繁や鈴木義尾、多田武雄らのちに海軍中央で要職を務める者よりも早かった。・・・横須賀海軍工廠総務部長在任中の1936年(昭和11年)、二・二六事件が勃発し同年3月予備役編入となる。その後1937年(昭和12年)12月から1939年(昭和14年)1月まで・・・艦隊派の中心人物の一人<であった>末次信正・・・内務大臣秘書官を務めた。・・・
 山下は陸軍皇道派に近い人物で、ロンドン海軍軍縮条約をめぐって分裂した海軍において艦隊派の一員として活動した。ロンドン会議中は全権の財部彪に不満を抱き、随員の山口多聞と財部刺殺を協議している。山下はこの協議の中で、財部個人ではなく日本全体の問題であることに思い至り、国家革新を考えるようになったという。帰国後の山下は、条約派将官の追放人事(大角人事)につき南雲忠一らと、ロンドン会議の首席随員左近司政三に辞職を迫り、他の条約派将官についても加藤寛治、末次信正、小林省三郎、石川信吾、加来止男らと同調して、追放に動いたと語っている。五・一五事件の被告には同情的で、横須賀工廠総務部長時代の山下の官舎では、週1回程度若手士官の会合が持たれ<ていた。>・・・
 縁戚関係にある山本五十六は山下の予備役編入を阻止しようと動く<が、>山下と小林省三郎との間で交わした文書が決め手<となり、>・・・二・二六事件直後に皇道派と関係があった、小林省三郎、真崎勝次らとともに予備役に編入された<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E7%9F%A5%E5%BD%A6
 山口多聞(たもん。1892~1942年)。海兵40期(次席)、海大(次席)。「旧松江藩士<の子。>・・・名前の「多聞」は楠木正成の幼名「多聞丸」から取っており、幼少の頃父から「大楠公のようになってもらいたい」と諭された。・・・1929年(昭和4年)11月ロンドン海軍軍縮会議全権委員随行員。山本五十六と共に条約締結に強硬に反対している。・・・1934年(昭和9年)6月、在<米国>大日本帝国大使館付武官。・・・ミッドウェー海戦において空母飛龍沈没時に戦死。最終階級は海軍中将。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%A4%9A%E8%81%9E 
 小林省三郎(せいざぶろう。1883~1956年)。海兵31期、海大15期。「新潟県出身<で>地主<の子。>・・・
 [昭和3年航空本部教育長に就任。翌4年霞ケ浦航空隊司令となり、この時、後年の<五・一五>事件の革新青年将校と交わり、]・・・陸軍皇道派ともつながりが<でき>た。藤井斉に代表される海軍側の国家革新運動<に関わった>青年士官の後見人のごとき立場<にな>った。<昭和6(1931)年の>十月事件 では霞ヶ浦航空隊の爆撃機13機の出動が予定されていたが、これは小林をあてにしたものであるとされ、閣僚名簿の海軍大臣として小林の名があった。しかし小林は武力行使には反対の立場であったとされる。なお事件が発覚し橋本欣五郎、長勇らが検挙されたのは10月17日であるが、その前夜小林は事件に関わっていた大川周明と会談している。ロンドン海軍軍縮条約には反対であったが、藤井らが実際行動に及ぼうとするのを抑えていた面もある。・・・
 [<昭和>6年12月満州特務機関長、8年駐満海軍部司令官として満州における海軍の権限確保に努めた。]・・・
 1934年(昭和9年)11月中将へ進み、・・・1936年(昭和11年)3月予備役編入となった。1945年(昭和20年)護国連盟本部長となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%9C%81%E4%B8%89%E9%83%8E
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%9E%97%20%E7%9C%81%E4%B8%89%E9%83%8E-1644992 ([]内)
 加来止男(かくとめお。1893~1942年)。海兵42期、海第25期。「熊本県八代郡松高村に生まれた。・・・
 飛龍の・・・艦長<であった>・・・加来は司令官の山口と共に退艦を拒否し、結果、艦は両名が残っているまま最後は日本海軍の駆逐艦巻雲の魚雷によって撃沈処分され、艦と運命を共にした。・・・
 一階級特進で最終階級は海軍少将。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%9D%A5%E6%AD%A2%E7%94%B7
 「1936(昭和11)年5月、海軍大学校教官加来止男中佐と陸軍大学校教官青木喬少佐が連名で、各大学校長に宛てて、空軍独立論を唱えた意見書を提出した。・・・
 その内容は、作戦実施上、陸海軍のそれぞれに直属させる必要がある航空部隊を除き、大型機を中心とし、防空に任ずる部隊を加えて、あらたに独立空軍をつくり、さらに陸海空三軍を統制する最高統帥機関を常設するというものだった。また、空軍は、すべての民間航空関係行政も統括するともされている。」
https://gendai.media/articles/-/85067?page=2
 真崎勝次(まさきかつじ。1884~1966年)。海兵34期。兄 眞崎甚三郎(陸軍大将)。「佐賀県出身<で農家の子。>・・・ソ連大使館付武官<等を経て>・・・海軍少将に進級<したが、>・・・[皇道派の兄甚三郎と加藤寛治ら艦隊派将官との連絡役をつとめ<、>]・・・1936年3月、予備役に編入された。
 その後、1942年2月、第21回衆議院議員総選挙に佐賀県第1区から出馬し当選。大日本政治会総務を勤めた。戦後、公職追放されたが、1952年6月に解除され、1955年2月、第27回衆議院議員総選挙に佐賀県全県区において日本民主党から出馬し当選。所属政党が保守合同により自由民主党となる。1958年5月、第28回総選挙で落選した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B4%8E%E5%8B%9D%E6%AC%A1
https://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E5%B4%8E%E5%8B%9D%E6%AC%A1-1109526 ([]内)

 その頃、山下の官舎に毎週一回ほど若い士官たちが大勢集ま<り、>・・・帰りに<条約派の井上の官舎>の塀に並んで立小便<していっていた。>」(132~134)

⇒海軍に限らないのでしょうが、当時の海軍では、地縁、血縁が大きな影響力を持っていたことを痛感しますね。
 但し、(空軍独立と陸海空統合という正論を吐いた)加来止男が、艦隊派になった背景については突き止められませんでした。(太田)

(続く)