太田述正コラム#13110(2022.11.10)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その19)>(2023.2.5公開)

 「・・・<第二次世界大戦における>ドイツ軍の圧倒的勝利に日本中が沸き立ち、暫く鳴りをひそめていた親独派が活気づくことになった。
一方英仏は、ドイツ軍の勝利によって東南アジアからの撤退を余儀なくされ、この地域は力の空白状態になった。
 日本の世論はドイツの勝利に目を眩まされ、「バスに乗り遅れるな<(注29)>!」の世論の下、南進論を叫ぶ声が大きくなった。

 (注29)「梅花女子大学の米川明彦先生編著『明治・大正・昭和の新語・流行語辞典』(三省堂)を引いてみると、281ページ、「1940(昭和15)年」の流行語として載っていました。そこには、「バスに乗り遅れるな」=(一九四0・昭和一五年)六月、近衛文麿が新体制を確立するために出馬表明すると、各政党が新体制でいい地位にありつこうとした時の合いことば。また、当時の国際情勢から取り残されるなという焦燥感から出たことば。転じて、一般に時流に乗り遅れることを「バスに乗り遅れる」と言った。『週刊朝日』(一九六一年一二月八日号)に「当時、日本中に『バスに乗り遅れるな』という言葉が大流行した。もともとは政党解消による新体制運動の合言葉だったが、このころの『バス』はドイツの電撃作戦の成功を意味するようになっていた」とある。」
https://www.ytv.co.jp/announce/kotoba/back/3601-3700/3606.html

 陸軍内でも、ドイツ軍による英国本土上陸が目前との観測が有力になった。
 このため有田八郎外相は、ドイツによる日本の参戦を義務付けられない程度において日独伊三国同盟を図りたいと考えるようになった。
 一方、陸軍側から見ると、米内内閣の日独提携と南進論はあまりにも消極的であるように思われた。
 「バスに乗り遅れまい」として焦る陸軍は、畑陸相を辞職させることによって米内内閣を倒す謀略に出た。・・・

⇒「陸軍内でも、ドイツ軍による英国本土上陸が目前との観測が有力になった。」や「「バスに乗り遅れまい」として焦る陸軍」については、工藤は典拠を挙げられないはずです。(太田)

 <1940年>」7月17日、組閣の大命が近衛文麿公爵に降下した。
 組閣に先だって近衛は、7月19日、陸、海、外相に予定されている東条英機陸軍中将、吉田善吾<(注30)>海軍中将、松岡洋右を荻窪の私邸の「荻外荘」に招いて、今後の方針について協議した。・・・

 (注30)1885~1966年。海兵32期(12番)、海大13期。「佐賀県・・・士族・・・の<子>。・・・連合艦隊参謀長、海軍省軍務局長、練習艦隊司令官、第二艦隊司令長官などを歴任。
 1937年(昭和12年)12月1日からは連合艦隊司令長官を務めるが、1939年(昭和14年)8月30日に阿部内閣の海軍大臣に就任。米内内閣、第2次近衛内閣でも留任した。1940年(昭和15年)に大将に累進。軍事参議官、支那方面艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官などを経て、1945年(昭和20年)6月1日に予備役となる。・・・
 松岡は「アメリカ国民の半数はドイツ系なので、日独同盟を結べばドイツ系アメリカ人が戦争抑止に動き、アメリカとは戦争にならない」と自説を展開。これに説き伏せられた吉田は日独伊三国同盟締結に賛成する。吉田は海軍を代表して同盟論に賛成したものの、内閣の予想に反し米軍は軍備に着手。吉田は心配のあまり強度の神経衰弱にかかった。周囲に辞任を勧められたものの、吉田は自らの辞任が国際関係に悪影響を及ぼすことを避け、職務に励み続けた。しかし、限界を超えた吉田はついに自殺を図り、日独伊三国同盟締結直前、1940年(昭和15年)9月5日に海相を辞任した。後任の海相及川古志郎も前任・吉田が三国同盟に賛成した以上、自身が反対する訳にもいかず、同27日、日独伊三国同盟は締結された。・・・
 これに関して昭和天皇は「吉田は松岡の日独同盟論にだまされた」「(ドイツ系アメリカ人が戦争抑止に動くとの松岡の言を)吉田は真に受けた」と回想している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%96%84%E5%90%BE

 7月22日、第二次小根内閣発足の当日、水交社において陸海首脳懇談会が開催された。
 この懇談会には、陸軍側から阿南惟幾陸軍次官、武藤章軍務局長、沢田茂参謀次長、富永恭次参謀本部作戦部長、海軍側から住山徳太郎海軍次官、阿部勝雄軍務局長、近藤信竹軍令部次長、宇垣纏第一部長が出席し、意見を交換した。
 ・・・陸軍側が三国軍事同盟の締結を主張したのに対して、海軍側は7月16日、陸海外の当局者間で決定された日独伊提携強化案以上のものは考慮していない旨言明した。・・・
 外相に就任した・・・松岡は・・・陸軍の主張に沿った日独伊三国同盟締結を望んでい・・・た。・・・
 7月30日、松岡の意向の意向を体した外相側近の手によって、「日独伊提携強化に関する件」と題する文書が作成された。・・・
 この文書が、近衛内閣の日独伊提携強化の基礎案になった。・・・
 8月23日、来栖三郎駐独大使はリッベントロップ外相からスターマーを、公使の資格で日本に派遣したい旨にお連絡を受けた。
 このため8月28日、松岡は斎藤良衛と白鳥敏夫を外務省顧問に任命して、外務省人事の刷新を図った。・・・
 9月6日、四相会議(9月5日、吉田善吾海相は病気のため辞任、後任に及川古志郎大将が就任)が開催された。」(182~185)

⇒「吉田海相の周りにいたのは、次官の住山徳太郎中将、軍司令総長は変わらず伏見宮、次長は近藤信竹中将、作戦第一部長に宇垣纒少将、作戦第一課長に中沢祐大佐、先任部員に川井巌中佐、次席部員に神重徳中佐らでした。中沢さんを除いて、どっちつかずの住山さんはともかく、その下は皆、どちらかといえば親独にして対米強硬派でした。・・・
 海軍の強硬派は、アメリカを牽制しつつベトナムに基地を設ける必要があると主張して内部から揺さぶりをかけました。部内で浮き上がった吉田海相は眠れない夜が続きます。・・・
 9月1日、海軍きっての政治的軍人として知られ、松岡外相とは同じ長州出身で仲のいい石川信吾大佐がやってきて、強引に談判します。
 「こうなればもはや理屈じゃなくて、イエスかノーか二つのうち一つです。決心の問題です。大臣の肚(はら)ひとつです」・・・
 吉田海相はその翌日、大臣室を訪ねた近藤中将の胸ぐらを取り、声を震わせて、「きさまらはこの日本をどうするつもりか」と怒鳴ったと秘書官が伝えています。」
https://cool-hira.hatenablog.com/entry/20140910/1410296717
という具合であり、一体どうして、三馬鹿トリオは、(伏見宮の了解を取り付けなければならなかったとはいえ、)海軍省も軍令部も日独伊三国同盟推進派ばかりで埋める人事を行い、いわば立つ鳥跡を濁す形で海軍省を去った・・米内の場合は首相の座も去った・・のか、まだ、私には腑に落ちていません。
 なお、吉田が松岡に騙されたという説は、ガセに近いはずです。(太田)

(続く)