太田述正コラム#13114(2022.11.12)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その21)>(2023.2.7公開)

「昭和14年7月、山本海軍次官は「海軍という所は、誰が来てもその統制と伝統には少しも変わりがなく、だれが大臣になろうとも、誰が次官になろうと、無責任ないわゆる独伊との攻守同盟のようなものに乗ることは絶対にない」と述べた。・・・

⇒この山本による予言は、すぐに翌年にはずれてしまうのですから目も当てられません。
 海軍部内のことすらこれほど分かっていなかった山本が国際問題について的確な判断を下せるわけがありません。
 そもそも、山本にしても井上にしても、「独伊との攻守同盟のようなもの」を追求する陸軍等の人々の真意・・いや足元にも大勢いたところの同じことを追求する海軍内の人々の真意すら・・を確かめる努力を碌に行った形跡がないのですから、どうしょうもありません。(太田)

 五十六に代わった新次官の住山徳太郎<(注33)>は温厚な人柄であり、米内海相下の五十六のような働きは到底期待出来なかった。

 (注33)1886~1962年。学習院中等科を経て海兵34期、海大17期。「東京府出身。・・・東宮兼侍従武官、侍従武官、・・・、教育局長などを経て、・・・海兵校長、海軍次官、佐世保鎮守府司令長官、軍事参議官などを歴任し、1942年(昭和17年)3月、予備役に編入された。その後、秩父宮別当を勤めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%B1%B1%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E9%83%8E

⇒住山は、予備役編入後に秩父宮別当・・秩父宮は日蓮主義者(私見)で三国同盟締結論者だった・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E5%AE%AE%E9%9B%8D%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
を勤めたことからすると、東宮兼侍従武官、侍従武官時代に、貞明皇后から、日蓮主義者だと見込まれていたのではないでしょうか。(太田)

 軍令部次長の近藤信竹も親独派で、以前は中立的だった軍務局長の阿部勝雄<(注34)>も次第に枢軸論者になった。」(188、190、

 (注34)1891~1948年。一関中学校を経て、海兵40期、海大22期(次席)。「岩手県出身。・・・<米国>駐在、海軍省軍務局第1課局員、第2艦隊参謀、海大教官、第3艦隊参謀、海大教官、軍務局第1課長、第2回ロンドン軍縮会議全権随員、「多摩」「龍驤」「加賀」の各艦長、軍令部第3部長などを歴任し、1938年11月、海軍少将に進級。欧米出張、軍務局長、海軍省兼軍令部出仕、1940年11月から三国同盟軍事専門委員としてドイツに駐在し、太平洋戦争期には欧州勤務であった。1942年11月、海軍中将となった。さらにイタリア大使館・・・付武官を兼務したが、1945年5月、ドイツ降伏が確実となったためスウェーデンに移駐し終戦を迎えた。1946年3月、予備役に編入され帰国した。
 阿部がベルリンを脱出する直前の4月15日、ドイツの崩壊を見越し東京の軍令部は「残存するドイツ潜水艦をできるだけ多く日本に回航するようドイツ海軍に要請し、その実現に努力せよ」との緊急電報を発信した。海軍総司令官カール・デーニッツ元帥は燃料不足を理由にドイツ潜水艦隊の日本回航を拒絶した。阿部が最終的な拒否回答を受けたのは4月20日午前11時30分であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%8B%9D%E9%9B%84
 「ライザ・マンディ著、小野木明恵訳『コード・ガールズ 日独の暗号を解き明かした女性たち』(みすず書房、2021年・・・発行)<によれば、>・・・駐独日本大使の大島浩とベルリン在住の<伊>海軍武官阿部勝雄は、ナチス評価が正反対で、二人の日本へ送信した暗号電文も解読され、ノルマンディー上陸作戦に活用されたそうです。」
https://jiganji.exblog.jp/29606433/

⇒阿部は、ナチスを否定的に見ていたようなので、軍務局長時代に彼が枢軸論者になったのは、杉山構想の一端を、郷土の先輩の(同じ岩手県出身・・生まれは新潟県だったが、本籍と育ちは岩手県東和町(現花巻市。但し、中学は盛岡中学校)で当時海軍大学校長をしていた)及川古志郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8A%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E5%BF%97%E9%83%8E
http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/person37
から明かされ、「洗脳」されたのではないでしょうか。
 なお、ドイツ潜水艦の日本「回航」を申し込んだ帝国海軍は厚顔無恥としか形容のしようがありませんが、隻数を問わずその申し込みにデーニッツ・・デーニッツは海軍総司令官になる前は潜水艦隊司令長官だった・・が応えていたとすれば、戦後のニュルンベルク裁判で(有罪判決を受けた被告達の中で最も軽い判決である)懲役10年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84
ではすまなかったでしょうね。(太田)

(続く)