太田述正コラム#13130(2022.11.20)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その29)>(2023.2.15公開)

 なお、官軍と賊軍ってのは話半分としても面白いですね。
 いずれにせよ、官軍側が賊軍を海軍内から駆逐しなかった点一つとっても、迫力に今一つ乏しい話ですが・・。(太田)

 「・・・昭和16年8月11日、井上は高須四郎中将が第一艦隊司令長官に転じた後を引き継いで、<航空本部長から>第四艦隊<(注51)>司令長官に親補された。

 (注51)「明治から昭和前期にかけて三度編制されている。初代は日露戦争末期に陸軍の樺太上陸支援に向けて編制され、二代目は支那事変時に華北沿岸の陸軍支援の為に編制され、三代目は太平洋戦争時に南洋諸島防衛を目的に編制された。また、1933年の海軍大演習時に仮想敵艦隊として臨時編制されたものも書類上第四艦隊とされて<いる。>・・・
 1941年(昭和16年)8月11日、日本海軍は聯合艦隊編成以来の伝統を破り、連合艦隊司令部と第一艦隊司令部を分離した。山本五十六大将(当時、連合艦隊司令長官)は以前から『米内光政連合艦隊長官、山本五十六第一艦隊長官』の構想を周囲(及川古志郎海軍大臣・小沢治三郎第三戦隊司令官など)に語っていたが、実現しなかった。山本大将は連合艦隊長官留任、第一艦隊司令長官は近藤信竹軍令部次長の予定を取りやめて高須四郎中将(当時、第四艦隊司令長官)が任命された。空席となった第四艦隊司令長官には、井上成美中将(当時、海軍航空本部部長)が任命された。井上中将は、かねてより戦艦不要論と、海上航空基地兵力の重要性を主張していた将官である。また及川古志郎海軍大臣が「(第四艦隊人事を好機として)中央にうるさい井上を南方に追い払った」という側面もある。
 また第一段作戦において、第四艦隊はウェーク島攻略を命じられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E8%89%A6%E9%9A%8A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E8%BB%8D)

 この人事について榎本重治<(注52)(コラム#12790)>書記官は、「井上さん、邪魔にされましたね…」と評した。

 (注52)1890~?年。「東京・・・生れ<。>・・・東京帝國大學法科大學を卒業し海軍省参事官を経て・・・海軍書記官・・・」
https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-3646
 「国際法を専攻し、東京帝国大学法科大学・・・在学中に高等文官試験合格、卒業後に鉄道院書記を経て海軍省参事官となった。・・・
 海軍軍縮会議にはワシントン会議(21~22年)、ジュネーブ会議(27年)、ロンドン会議(30年)、ジュネーブ一般軍縮会議(32~33年)、ロンドン会議(第二次)予備交渉(34年)、同本交渉(35年)の全てに随員として参加し、30年と34年のロンドンにおける2度の交渉時には山本を法律面(や将棋の相手)において強力にサポートして以来、親しい交流があった。
 連合艦隊司令長官として43年に戦死した山本や、その後任として翌年に殉職した古賀峯一(海兵34期)が堀悌吉へ宛てた書簡、山本から嶋田繁太郎(太平洋戦争中の半ばまで海軍大臣、山本と海兵同期)宛の書簡、山本から古賀への書簡を一冊の書物に収めた「五峯録」を戦後、堀とともに保管し続けたのも、この榎本である。
 そして、日中戦争前後から太平洋戦争終戦までの間、榎本は、海軍省の法律顧問的な存在として(肩書は海軍書記官または海軍教授)、海軍大臣や次官の諮問に応じて意見を具申することができた。」
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/25301?page=2

⇒防衛省が防衛庁当時、参事官と書記官を逆転させて、局長クラスの文官の官名を参事官、課長クラスの文官の官名を書記官、としていたのは興味深いものがあります。(太田)

 すなわち井上が英米との開戦に強く反対している事から、強硬派が台頭しつつある海軍内で、煙たがられてしまったという訳である。・・・
 第一次世界大戦後、独領から日本の委任統治領となって以来、トラック諸島は、「南の生命線」を守る日本海軍の一大根拠地であった。
 井上が指揮する第四艦隊の防備区域は、東経130度より175度、北緯零度より22度にわたっており、東西5千キロ、南北2千4百キロの海域に散在するマリアナ諸島(サイパン島など)、カロリン諸島(トラック島など)、マーシャル諸島など大小1千4百余の島々から成っていた。・・・
 井上は『思い出の記』の中で、次のように述べている。
 「8月初めに、私は四艦隊に転出し、自分の主張した南洋島嶼防備に責任を負わされた。行ってみて何も出来ておらず、また開戦になっても何もやってもらえず、誠に驚きもし、また苦労もした」・・・
 12月8日、真珠湾奇襲作戦の成功を知らせる電報が、第四艦隊司令部に届いた。
 飯田秀雄<(注53)>通信参謀が井上に向って「おめでとうございます」と言うと、井上は硬い表情を崩すことなく、ただ一言「馬鹿な!」と吐き捨てた。」(222、226)

 (注53)海兵51期。通信学校兼横須賀航空隊教官を経て、当時、第四艦隊参謀(中佐)。
http://hush.gooside.com/name/Biography/012i.html

(続く)