太田述正コラム#13134(2022.11.22)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その31)>(2023.2.17公開)

 「・・・永野<修身>は昭和16年4月から3年近く軍令部総長を務め、この年の2月にその職を嶋田繁太郎大将に譲ったばかりの現役再先任の大将だった。
 その永野は、郷里高知で開かれる元帥就任祝賀会に、急迫した戦局にもかかわらず出席する途中に、江田島に立ち寄ろうとした。・・・
 井上は江田島に来校した長野に対して・・・次のように説明した。
 (一)、兵学校長としての生徒教育の理念は、生徒を常識あるジェントルマンに育てる事である。すなわち人間を造る事であって、必ずしも部隊ですぐ役に立つ職人を作る事は考えていない。
 (二)、最近本省教育局から、戦局の推移に鑑み、生徒教育期間をさらに数ヵ月短縮する案を示して来たが、生徒教育の大目的からして絶対不賛成である旨回答した。このような要求は、「実らざる稲を刈って糧を求むる」に等しい暴挙であると考える。東京に帰られたら、大臣・総長にも井上の意のある所を伝えて頂き、教育期間短縮および軍事実技科目の増加というような近視眼的措置は再考されるよう取計って頂きたい。・・・
 井上はあくまでもリベラルアーツを基調とする教育を貫こうとした<のである>。・・・
 <それは要するに、>軍事学より普通学に重点を置くものであった。それゆえに、武官教育の一部から強い反発を招くことになった。・・・
 
⇒工藤は、永野が教育に一家言以上のものを持っている人物であることを説明してくれていないので、普通の読者は、永野が海兵に立ち寄った真の理由が分からないでしょうし、井上のこの言も表面的にしか受け止められないことでしょうが、(詳しくは、次回オフ会の「講演」原稿で書くけれど、)永野こそジェントルマン教育を志向していたのに対し、井上は学力(普通学)に秀でた生徒にする教育を志向していた、という違いがあり、井上としては、いかにも永野の好きそうなジェントルマン教育という心にもない言葉を口にすることで永野の口出しを封ずると共に、教育期間短縮反対と軍事学重視反対、という永野も反対できない井上の主張を押し通すための協力を永野に求めた、というのが私の理解です。(太田)

 井上の眼に宿っていたのは、即戦力としての期待を担った生徒たちを見る厳しい眼差しではなく、敗戦後の社会で生き抜かなければならない若者たちに対する自愛の眼差しだった。・・・

⇒ここも、一言付け加えれば、永野は、井上のように若者たちに受験のための学力を付与するなどという世知辛い思いではなく、いつの時代においても、そして、世界のどの場所に出しても、通用する若者たちへと彼らを教育したいという思いを抱き続けた人物だったのです。(太田)

いわゆる「終戦工作」とは、太平洋戦争(大東亜戦争)を終結に導くため、<小磯内閣の海相の米内光政と次官の>井上の命を承けた・・・高木惣吉<(注55)>少将・・・が中心となって、東条・嶋田による戦争指導体制を打倒するために行なった工作のことを指す。・・・

 (注55)1893~1979年。海兵43期、海大25期(首席)。「海軍はシーメンス事件以降、陸軍と異なり極端とも言える程政界とは疎遠な存在となったが、日華事変以降は海軍の政治体制への不備が表面化しつつあった。このため、海軍部内に軍務局付属機関として調査課が1939年(昭和14年)に制度化された。これに加え、高木の提案により、日本の戦争理念の研究、生産増強策の提案、海軍政治力の補強に貢献すべく、各方面より人材を確保して構築したのが以下のブレーントラストである。戦時体制強化と共に次々と開設された。
 思想懇談会 安倍能成(第一高等学校長、のち文部大臣)、冨塚清、服部静夫、藤田嗣雄、和辻哲郎(東京帝国大学教授)、岸田国士(劇作家)、関口 泰(朝日新聞社)、仁科芳雄(理化学研究所)、木下杢太郎(作家)、幹事 谷川徹三(法政大学教授、のち総長)
 外交懇談会 伊藤正徳(時事新報)、稲畑勝治(外交評論家)、神川彦松、高木八尺(東京帝国大学教授)、田村幸策(中央大学教授)、松下正寿(立教大学教授)、鶴見祐輔(著述評論家)、 幹事 三枝茂智(明治大学教授)
 政治懇談会 岸本誠二郎(京都帝国大学教授)、佐々弘雄、緒方竹虎、田中慎次郎(朝日新聞社)、杉原荒太(外務省、のち防衛庁長官)、湯川盛夫(外務省、駐英大使)、田中二郎(東京帝国大学助教授)、細川護貞(近衛文麿秘書)、幹事 矢部貞治(東京帝国大学教授)
 総合研究会 板垣与一(東京商科大学)、大河内一男(東京帝国大学助教授)、三枝茂智(前項)、高山岩男(京都帝国大学教授)、谷川徹三(前項)、武村忠雄、永田清(慶應義塾大学教授)、矢部貞治(東京帝国大学教授)、松下正寿(前項)、幹事なし
 経済研究会 板垣与一(前項)、大河内一男(前項)、武村忠雄(前項)、松下正寿(前項)、永田 清(前項)
 太平洋研究会 松下英麿、畑中繁雄(中央公論社)、大森直道(改造社)、加田哲二、平野義太郎等
 戦時生産研究会 松前重義(逓信省工務局長)が主宰し各省中堅事務当局者
 対米研究会 都留重人(経済学者)、野田岩次郎(実業家)、松下正寿(前項)
 法律政策研究会 田中耕太郎、石井照久(東京帝国大学教授)、田中二郎(前項)
 嘱託 天川勇(慶應義塾大学)、江沢謙治、溜島武雄、田中精一、谷口良彦、中山伊知郎(東京商科大学)、大熊信行(高岡高等商業学校)、大患代夫、加田哲二(慶應義塾大学)、清水澄(東京帝国大学)、清水幾太郎、杉村章三郎(京都帝国大学)、高木友三郎(明治大学)、本位田祥男、穂積重遠、蠟山政道(東京帝国大学)
 海軍省顧問 井上庚二郎、岡田文秀、竹内可吉、藤原銀次郎、藤山愛一郎、松江春次、山崎巌、東竜太郎、湯川盛夫・・・
 舞鶴鎮守府参謀長から海軍省教育局長に転補された高木は、戦局悪化を憂い、海軍部内から自己主張が無いと信頼を失っていた嶋田海軍大臣を更迭することで、和平への動きを具体化できないかと模索した。しかし、嶋田の更迭は不可能であると判断し、首相・東條英機の暗殺計画を立案するに至る。
 計画にはまず神重徳大佐、小園安名大佐、渡名喜守定大佐、矢牧章大佐、伏下哲夫主計中佐など海軍中堅クラスとも言うべき面々が参加したが、後に高松宮宣仁親王や細川護貞なども加わった。これは高木の背後に海軍の長老たちの無言の同意があった事をうかがわせる。
 計画は、東條が愛用していたオープンカーで外出した際に数台の車で進路を塞ぎ、海軍部内から持ち出した機関銃で射殺するという荒っぽい手口のものだった。実行直前にサイパン失陥の責任を問われた東條内閣が総辞職したため、計画は実行に移されなかった。晩年の高木は「読みが浅かった。暗殺を実行したら陸海軍の対立が激化して終戦がやりにくくなった(だろう)」と反省の弁を述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%83%A3%E5%90%89

⇒海軍省のブレーントラストに陸軍OBが一人も含まれていないことに首を傾げましたが、それよりも何よりも、嘱託のところに、私の「恩師」の天川勇(コラム#1877)氏と思しき人物が登場することにびっくりしました。(太田) 

 <時計の針を巻き戻すが、>昭和18年8月、高木は舞鶴鎮守府参謀長から支那方面艦隊参謀副長への転任の内示を受けた。
 ところが高木には肋膜炎の後遺症があったため、医師から外地での勤務は無理と診断され、9月下旬、軍令部出仕となってふたたび東京に戻ることになった。
 その後、高木は海軍大学校研究員となり戦況調査と海軍政策の作成に当たった。
 高木はそれまで足かけ6年にもわたって、海軍調査課長(昭和12年10月~17年6月)にあった。
 このことから高木は、海軍内外に心を許す多くの友人を持っていた。・・・
 旧知の人々と<再び>接触するようになった高木は、しだいに嶋田海相をはじめとする海軍首脳による戦争指導のあり方に対して、強い疑問を持つようになった。
 ちょうどその頃、東条体制下の陸軍の専横ぶりと嶋田海相の無能ぶりを印象付ける出来事が起こった。
 それは昭和19年2月10日、昭和19年度の所要航空資材の陸海の配分をめぐって開催された陸海軍大臣、両総長(杉山元、永野修身)による四者会談の取り決めの際であった。・・・
 軍令部や航空本部の中堅層からは、艦隊海軍から航空海軍に脱皮すべしとの声が上がっていた最中の<海軍に不利な>決着であったため、不満と同様は大きかった。」(254~256、267~269)

⇒高木も、自分達がセクショナリズムで動いているだけと言ってもよいことに全く気付いていた気配がありません。
 改めて、海軍の欠陥人事教育がもたらしたものにぞっとさせられます。(太田)

(続く)