太田述正コラム#1646(2007.2.3)
<昭和日本のイデオロギー(その4)>(2007.9.12公開)
 丸山理論の最大の問題点は、彼自身がアングロサクソン音痴であったことに加えて、戦前から戦後にかけての日本史学の水準が低かったこともあって、江戸時代の日本が、カトリシズム等でがんじがらめになっていたところのゲマインシャフト=封建社会=身分社会=部族社会ないし家父長制社会たる18世紀頃までの西欧社会、とは似ても似つかない社会であって、(少なくとも)16~17世紀頃のイギリス社会並には近代的な社会であったことに全く気付いていなかったことです。
 江戸時代の日本はどんな社会だったのでしょうか。
 日本では、織田信長らの戦国大名による一向一揆の鎮圧や、信長による1571年の比叡山焼き討ちによって、江戸時代に入る前に伝統的宗教の力が大幅に削がれていました(
http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/ka/HieizanYakiuchi.html
。2月3日アクセス。以下同じ)し、戦国時代末期の16世紀中頃から、楽市楽座が、織田信長らによる奨励策もあって、近畿地方から始まって次第に全国に普及し、荘園領主と結びついていたそれまでの特権商工勢力が排除された結果、江戸時代に入る前に自由市場経済が全国的におおむね確立していました(
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/rakuitirakuzanosei.html
)。
 また、豊臣秀吉の太閤検地(1582年~)によって、農地に関し近代的所有権と近代的税制に近いものが確立し、武士は国家官僚的な存在へと変貌を遂げるとともに(注5)(
http://jp.fujitsu.com/family/sibu/toukai/sanei/sanei-23.html
)、戦国時代の終焉、とりわけ秀吉による刀狩りの実施(注6)を契機として、日本に紛争を法によって解決しようとする成熟した市民社会が成立するに至っていたのです(注7)(
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0508/sin_k249.html)。
 (注5)それまでは農村の中に荘園等の権利関係が重層的に存在していたところ、全面的に中間「搾取」者が排除され、耕作者に一元的な農地利用権が与えられた。また、農地は観念的には公有となり、大名等の武士には、俸給として、石高に応じ、特定の農地からの徴税権が与えられる、という格好になった。
 (注6)刀狩りは、太閤検地によって中間「搾取」権を失った国人層を中心に全国各地で起こった一揆の再発を防止するために実施された(
http://www2.ocn.ne.jp/~hiroseki/kenchi.html)。
 (注7)立教大学名誉教授の藤木久志は、刀狩りにもかかわらず、江戸時代の農民は大量の刀剣や鉄砲を保有し続けており、それらを狩猟等の際に活用していたというのに、百姓一揆にあたって、農民側が鉄砲や刀剣を用いることはなく、領主側もまた鉄砲を用いることはなかった、と指摘している。
 すなわち、江戸時代の日本の社会は、政治や人間の精神に容喙してきた宗教(カトリシズム)が排斥された、自由市場経済の、近代的土地所有制度を持つ、法の支配の貫徹した16世紀のチューダー朝ないしは17世紀のスチュアート朝の頃のイギリス社会に勝るとも劣らない近代社会だったのです。
 イギリスにはあったところの、権力の専横を防止する不文憲法、コモンロー、あるいは議会が江戸時代の日本にはなかったではないかと言われるかもしれませんが、徳川幕府は、ユニークな権力自己抑制システムを持っており、権力の専横は巧みに防止されていました。
 第一に、江戸時代の権力機構が簡素極まりないものであったことです。
 例えば、江戸は18世紀頃には町人人口が55万人に達していましたが、江戸行政を担当する町奉行所には役人が290人しかおらず、そのうち警察業務についていた者はたった24人でしたし、同じ頃大阪の人口は40万人に達していましたが、町奉行所には役人がせいぜい約160人しかおらず、そのうち警察業務についていた者はたった10人でした。その他の中小都市の警察組織はあってなきがごとしであり、農村地帯では警察組織は全くないのが普通でした(石川英輔『大江戸開府400年事情』講談社文庫2006年 15~18頁)。
 要するに、警察業務を含む行政は大幅に民間委託されていた、ないしは民間の自治に委ねられていたということであり、これでは権力を専横的に行使することなど、物理的に不可能でした。
 第二に、江戸時代においては権力と財力が分離していたことです。
 そもそも、江戸時代においても、権威ある天皇の委任により将軍は権力を掌握する、という権威と権力の分離がありました。
その上、以下のように、権力と財力が分離していたのです。
 まず、最高権力者たる将軍といえども、質素な生活を強いられました(上掲書41頁)。
 また、老中になれるのは原則として10万石以下、普通は5万石前後の譜代大名だけであり、老中に次ぐ権力者である若年寄になれるのは大名としては最小規模の1~2万石の譜代大名だけだったことです。大老が設けられる場合は、譜代中の大身が務めましたが、大老は江戸時代を通じて7人しかおらず、いないのが普通でした(上掲書42~43頁、48頁)。
 これに対し、外様大名は幕府の権力を担うことはできませんでしたが、外様大名には大きな領地を支配する国持ちの大大名も多く、領地が狭い上に飛び地が多くて老中等になると領地経営の暇もない譜代より経済的に恵まれているのが普通でした(上掲書47、48頁)。
 以上の権力と財力の分離は、幕府自身がそのように制度設計したわけですが、これに加えて、武士は庶民にくらべて、次第に相対的に困窮していった(コラム#1639)のですから、予期せぬ形で、江戸時代を通じて、権力と財力の分離は一層進んで行ったことになります。
 ですから、江戸時代の権力は、基本的に腐敗を免れえたのです。
 また庶民は、苦労が多い割に実入りが少ない権力者を、さほどうらやましいとは思いませんでした。
(続く)