太田述正コラム#13152(2022.12.1)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その40)>(2023.2.26公開)

「・・・海兵75期で元群馬大学教養学部教授だった一柳高明<(注71)>氏<が>【群馬大学教養紀要】(昭和60年、第19巻)に掲載された、『人と思想研究–井上成美と清書–』<によれば、井上の>・・・蔵書・・・<には、>書入れのある聖書に加えて『讃美歌』まである<。>・・・

 (注71)前橋中卒。
http://www2b.biglobe.ne.jp/~yorozu/sub2-19.html
 『ミモサ 一度だけ耳にしたみことばを頼りに、神の愛に生きたインド女性』といった共著書がある
https://ec.mibon.jp/i-2821464.php
ことから、本人もキリスト教徒らしい。

 <また、>井上と同期の木幡行<(注72)>(こばたつよし)少将からの賀状・・・<も>発見した。

 (注72)1887~1977年。「木幡家は代々相馬中村藩の藩士であったが没落し、極貧の少年時代を過ごした。・・・
 当時の海軍兵学校ではキリスト教徒はヤソと言われて歓迎されなかった<。>・・・卒業成績は本人が思っていた以上に芳ばしいものではなく、179名中135番という成績でベッキ(backのなまり、つまりは劣等生のこと)組に入ってしまった。1909年(明治42年)11月19日、失意のうちに海軍兵学校を卒業・・・。
 海兵37期の練習艦隊には他の練習艦隊にはない特殊なケースとして、候補生を成績優秀者とベッキ組に分割し、差別するということが起こった。ベッキ組はそれに反発し、練習艦隊の成績は頗る悪かったという。その結果、37期は少尉任官を1910年(明治43年)12月1日に任官する者と1911年(明治44年)2月10日に任官する者とに分けられることとなった。ベッキ組は大いに憤慨し、図らずもベッキ組に入っていた木幡は海軍生活全般に於いてこのコンプレックスを抱きながら勤務することとなる。・・・同期の小沢治三郎が海大甲種学生として上京して会った際に「木幡、貴様も試験を受けろよ。」と言われたのが気になって、ベッキでも海大に入れるか分からないが受けてみようと受験をする気分になり、それから猛勉強をした結果、1920年12月1日、海軍大学校甲種20期に入学することとなった。1922年12月1日海大甲種20期卒業<。>・・・
 1937年11月1日任海軍少将。12月11日予備役。
 予備役後は教育局局員の時に局長をしていた寺島健中将が世話をして、1938年1月19日、当時寺島が社長をしていた浦賀船渠株式会社顧問に就任する。戦中は海軍の要請により青島にあった海軍工廠が浦賀ドックに委託されたことにより青島出張所所長として勤務、終戦を迎える。戦後は秦行舍堂という印刷会社を経営し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%B9%A1%E8%A1%8C

⇒「注72」からも、帝国海軍の人事教育の無茶苦茶加減が分かりますね。(太田)

 その賀状には、次のように記されていた。
 「謹んで信望愛の信念を賀す 天の父の全きが如く 何字も全かれ <昭和>36年元旦 木幡行 うしと見し世ぞ 今は楽しき 光輝く 前途悠久」
 この賀状には、木幡行の井上への、嘉悦と激励のメッセージが認められていた。
 一柳氏は、この時すでに行氏が他界していたため、三男で海兵75期の木幡敦氏に連絡をして、その辺の事情を聞いてみることにした。
 ・・・敦氏から、母堂の話の詳しい内容が送られてきた。
 それには、「・・・井上成美<が>・・・キリスト教徒となったのは、江田島時代かその後であるかは不明である。・・・」と記されていた。・・・
 国立音楽大学<の>・・・横田エベリン助教授・・・の研究(The Influence of the Bible and the Ideas of Christianity on Inoue Shigeyoshi’s Outlook on Life『井上成美の人生観における聖書とキリスト教思想の影響』)によって、井上が通っていた仙台の旧制中学の英語教師のうち何人かは宣教師であり、その頃から井上は聖書の教えに触れていた。また井上の兵学校時代にもクリスチャンの英語教師がおり、生徒たちにキリスト教を理解させるために、外部からクリスチャン講師を招くと共に、「権威はすべて神によって立てられている」ことから、軍人にはキリスト教が必要ということになり、明治37年に「陸海軍ミッションクラブ」が設立された。
 そこでは、武士道に根付いたキリスト教を教える清書研究会が行なわれ、井上も何度かここに出席したことなどが明らかになっている。・・・
 <ちなみに、>昭和34年、井上は海兵37期クラス会に、「毎日平凡ながら満ち足りた生活をしている。最近読んだ本で私が気に言った本は、<シューラー牧師の著書である>『積極的考え方の力』ですが、クリスチャンでない私も面白くためになりました」との一文を寄稿し<ているが、>・・・独立教会であ<る>・・・『牛込キリスト教会』の佐藤順牧師<は、>・・・井上はクリスチャンでなくても、・・・実生活の中で神の愛と義とを実践<する>・・・忠実な『イエスの弟子』なの<だ、いう>・・・解釈<だ。>」(300~306)

⇒新島襄と内村鑑三は、どちらも関東の親藩の藩士の子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6%E8%A5%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89
で、井上は幕臣の子(※)ですが、新島は「各個教会の独立自治を極めて重視する」会衆派教会、内村と井上は無教会派・・井上の場合はひねくれた無教会派だが・・、というわけで、この3人の著名人物達には面白い共通性がありますね。
 (著名人ではない木幡の宗派は分かりませんでしたが、「相馬中村藩<の>・・・藩主は一貫して相馬家で、家格は柳間詰め外様大名、後に帝鑑間詰め譜代大名に列せられ<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E4%B8%AD%E6%9D%91%E8%97%A9
というのですから、彼も、一応、広義の関東における親藩の藩士だった家の出身です。)
 これでは、井上に、倒幕派の多くに共通する、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス、的なものへの感受性がなかったのは当たり前かもしれません。
 また、私は、新約聖書に入れ込む人って、基本的に経験科学的な物の見方や分析ができない人だと思っている(コラム#省略)ので、井上はまさにそういう人物だったということでしょう。
 ただ、私がどうしても理解できないのは、「実生活の中で神の愛と義とを実践<する>・・・イエスの弟子」が、一体どうして、罪の最たるものである、殺人、のプロ集団であると言ってもよいところの、軍隊、に奉職し続け、軍隊を辞めてからも軍隊を愛し続けることができたのか、です。
 いくら、戦後、井上が『イエスの弟子』も真っ青の極貧生活を送った(※)からといって、そんなことでそれまでの罪を贖えるわけはなく、私なら、そんな非論理な人生を送るなんてことは到底耐えられませんが・・。(太田) 

(完)