太田述正コラム#2076(2007.9.21)
<自民党総裁選挙(続)>
 (本篇は即公開します。)
1 始めに
 麻生太郎氏と福田康夫氏による総裁選をどう見るべきか、更に考えてみましょう。
2 総裁選をどう見るべきか
 (1)両氏の違い
  ア 構造改革と戦後レジーム脱却をめぐって
 福田氏は小泉純一郎前首相の「構造改革」路線に肯定的、安倍晋三首相の「戦後レジーム脱却」路線には否定的であるのに対し、麻生氏は小泉「構造改革」路線の修正を訴え、安「戦後レジーム脱却」倍路線は高く評価している、というコメントが日本のメディアによって一般になされています。
 実際、福田氏は、対北朝鮮外交で首相の「圧力」路線から「対話」路線への転換を表明。首相が進めてきた教育再生や憲法改正、集団的自衛権の解釈変更などに言及したことはないのに対し、麻生氏は、参院選の敗因は小泉「構造改革」の負の遺産が大きなマイナス要因として働いたと主張しています。
 (以上、例えば
http://www.sankei.co.jp/seiji/shusho/070918/shs070918002.htm
(9月19日アクセス)による。)
  イ 福祉国家・新自由主義・新保守主義をめぐって
 一橋大学大学院社会学研究科教授の渡辺治氏は、(「改革」と「戦後レジーム脱却」の対置による分析に代えて、)「福祉国家」、「新自由主義」、と「新保守主義」なる理念型を用いた分析を推奨しています。
 渡辺氏の、「福祉国家」、「新自由主義」と「新保守主義」を、私の言葉を交えつつご紹介すると次の通りです。
 戦後欧米は、福祉国家を志向し、企業と高額所得者から多額の税金を集めて、教育や福祉、医療制度を通じて中流階層に所得を再分配することによって、安定した「国民統合」を実現してきたが、この政策が不況下のインフレーションを招くようになって行き詰まり、1970年代に新自由主義が登場した。
 これは、大企業の競争力を阻害する規制や制度を撤廃・緩和し、競争力を回復させることで経済発展を促そうとする考え方であり、法人税を減税したり、社会保障の総額を抑制して財政規模を削減するとともに、規制緩和を進めて、労使関係の規制や地場産業、農業の保護策も撤廃するというものだった。
 ところが、新自由主義が広がると、今度は勤労者階級たる中間層が解体され、階層間の格差が拡大し、ひいては社会の分裂が避けられくなる。
 そこで、修正された新自由主義として登場したのが新保守主義であり、英国のサッチャー政権や米国のレーガン政権は、新自由主義的な規制緩和や構造改革を進めると同時に、伝統的な家族や地域、学校、企業というような共同体の再建を主張し、強い国家を標榜して国民を統合させようとした。
 他方、戦後の日本は、「福祉国家」を志向することなく、地方の公共事業投資で経済発展を促し、完全雇用を達成し、結果的に所得格差を是正するという「開発型国家」を志向してきた。
 ところが、公共事業が財政を肥大化させたことと、二重構造の温存がグローバル化時代にそぐわなくなったこと等を踏まえ、小泉前首相は「新自由主義」路線への切り替えを断行した。
 これは、更なる動きを引き起こした。
 それが一つには安倍首相による「新保守主義」の採用であり、二つには小沢民主党による「福祉国家」政策(「年金」「子ども手当て」「農業の戸別所得補償制度」)の採用とその参院選でのマニフェスト化だ。
 (以上、
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20070913/134917/
(9月19日アクセス)による。)
 渡辺氏自身は、日本における保守主義は安倍氏一代で終わりを告げ、麻生氏も福田氏もどちらも新自由主義者であるとしつつ、この二人は急進的新自由主義者であった小泉前首相とは違って漸進的新自由主義者である、としているところ、私には、麻生氏は安倍氏の新保守主義の継承者、福田氏は小泉氏の新自由主義の継承者のように見えるのですが、いかがでしょうか。
 (2)両氏の共通点
 麻生・福田両氏に共通する親がかりの「華麗」な経歴について、既に以前(コラム#2064で)指摘したところですが、同様の指摘をする日本のメディアが増えてきました。
 麻生氏も福田氏も首相であった祖父や父の地盤(選挙マシーン)・看板(暖簾)・カバン(カネ)を引き継ぎ、おかげで高い学歴を得、選挙にも苦労することがなかったとし、毎日新聞の論説は「進行中の血族支配の総裁選は「日本の滅亡」を暗示するがごとくである」と嘆じています。
 しかし、これは両氏だけの問題ではありません。
 上記毎日論説は、安倍首相も衆議院議長の河野洋平氏も参議院議長の江田五月氏も、民主党代表の小沢一郎氏も民主党幹事長の鳩山由紀夫氏もことごとく2世議員(正確には、安倍首相は3世議員、鳩山氏は4世議員)であるとし、世襲議員は少なくとも135名は下らない、と記しています。
 (以上、
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/maki200604/news/20070918dde012070040000c.html
http://www.asahi.com/politics/update/0921/TKY200709200380.html
(どちらも9月21日アクセス)による。)
3 感想
 「防衛次官人事問題とは何だったのか」シリーズ(コラム#2034、2036、2038)を読まれた方はお分かりでしょうが、私は真の「構造改革」のためには、「戦後レジーム脱却」が不可欠であると考えています。
 ですから、それを「新保守主義」と呼ぶかどうかはともかく、私は安倍首相や麻生幹事長の考え方に強いシンパシーを覚えます。
 それと同時に小沢民主党の「福祉国家」、というより所得再分配の考え方にも私はシンパシーを覚えています。
 問題の第一点は、構造改革・戦後レジーム脱却・所得再分配を三つとも掲げる政治家がいないことです。
 そして問題の第二点は、前首相や現首相、そして首相候補がいずれも世襲議員であって、私の見るところ、いずれも能力・識見・リーダーシップ等の面で到底首相の器ではないことです。
 彼らをもってしては、到底官僚機構をコントロールすることはできず、従って、掲げた政策を真の意味で遂行することもまたできるはずがないのです。
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<太田>
 本日から、概要版は、公開版の末尾に後で付加することとさせていただきます。
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 (コラム#2076の中程で、小泉首相について「新自由主義」とすべきところを「構造改革」と誤記していまいました。ブログは訂正してあります。)
 コラム#2077(2007.9.21)「退行する米国(続x5)(その1)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
 ・・
 キリスト教原理主義であるブッシュに対するBoston Globe誌のコラムニストであるキャロル・・による批判を、適宜私の言葉を交えつつご紹介しましょう。
 ・・
 ・・<この>米国例外主義的な物の考え方は、米国人の間で脈々と受け継がれて行った。
 ・・米国による北米大陸の征服が、自由の民による自由の普及であって道義にかなったこととして正当化されたのがその現れだ。いわゆるマニフェスト・デスティニー・・だ。
 自由(ないし民主主義)という言葉は、大方の米国人にとってはキリスト教による救済と同義なのだ。だから、自由(ないし民主主義)の普及、すなわちキリスト教の異教徒への普及は、大方の米国人にとって使命なのだ。
 米国の保守派とリベラルの違いは、前者が自由・・という言葉を使うのに対し、後者は人権・・という言葉を使うことくらいだ。
 だからソ連との冷戦もキリスト教対無神論の宗教戦争であると受け止められた。
 ・・
 さて、20世紀初頭に原理主義・・という言葉が生まれる。
 これは、聖書の文字通り受け止めるプロテスタントの宗派を指した言葉だった。
 このキリスト教原理主義は、啓蒙主義と科学の否定の上に成り立っていた。
 考えてもみよ。
 ・・
 キリスト教原理主義に冒されている者はその一部だとはいえ、米国はイスラエルがユダヤ教国であるという以上にキリスト教国なのだ。
 現ブッシュ大統領は、このキリスト教国米国において、本来出自が異なるところの、米国例外主義とキリスト教原理主義を結びつけたのだ。
 ブッシュの下で共和党は、米国憲法の政教分離原則に反し、積極的にキリスト教原理主義諸派と提携し、これら諸派の政治力を活用するようになった。
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 また、国防省内では、組織の上下関係を通じたキリスト教宣教活動が黙認されるようになった。
 ・・
(続く)