太田述正コラム#13162(2022.12.6)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その5)>(2023.3.3公開)

 「1931(昭和6)年9月の柳条湖事件をきっかけに関東軍が起こした満州事変は、経済自給圏形成の出発点となった。

⇒安達自身が「1929年10月、アメリカを起点に大恐慌が世界を覆い、30年代に入り国際的な協調が綻び始める」(引用紹介済)と書いているところ、米英は、1931年の満州事変以降の日本の支那大陸進出等を、その後の1935年からのイタリア、1938年からのドイツ、が始めた、軍事力の威嚇/行使
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4
や第二次世界大戦、と同様の、「国際的な協調が綻び」たことにこれ幸いとそれを口実にしてとったリアクションだった・・このリアクションを正当化するための、東方生存圏構想を、ドイツは最後まで公表しなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E7%94%9F%E5%AD%98%E5%9C%8F
のに対し、大東亜共栄圏構想を、日本は大戦参加後しばらくして公表した・・と受け止めたと思われ、だからこそ、「国際的な協調<の>綻び」を爾後口実として用いさせないために、日本の同大戦参戦直前の1941年8月14日の大西洋憲章で、「貿易障壁を引き下げること」や「全ての人によりよい経済・社会状況を確保するために世界的に協力すること」、を謳った、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%86%B2%E7%AB%A0
と私は見ています(コラム#省略)。
 恐らく、以上のような見方を安達もしているのでしょうが、問題は、(イタリアについては措くとして、)一見似通って見える「・・圏構想」提唱に係る、日本とドイツの動機の違いです。
 ヒトラーは、東方生存圏における被征服民の環境について、1942年4月11日に次のように語っています。↓
「・「個人的自由を最大限に許可することで、いかなる国家組織も形成できないようにし、出来るだけ低い文化環境に陥るようにしむけ、出来るだけ多くの物資を経済的に搾取しなければならない。
 ・教会は各村落ごとに一宗派が出来るようにしむけ、統一的な組織にまとめてはならない。アメリカ・インディアンのような魔術崇拝が起きても歓迎するべきだ。
 ・この地域にドイツ<・・ゲルマン人(太田)・・>から教師が来てはならないし、学校教育を強制してもいけない。ロシア人・キルギス人・ウクライナ人が読み書きできることはわれわれの害になる。
 ・衛生学の知識を与えると彼らの人口が増加するため禁止する。ドイツ人医師による治療も禁止する。
 ・被征服民族に武器を与えるのは最大の不合理である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E7%94%9F%E5%AD%98%E5%9C%8F 前掲
 上掲の最後の2項以外は、イギリスの植民地政策と全く同じです(典拠省略)が、日本の大東亜共栄圏域地域に対する占領政策とは全く異なり、真逆です(典拠省略)よね。
 安達がこの大きな違いをどう説明するのか聞いてみたいところですが、私自身は、イギリスやドイツの勢力圏拡大は利己的な目的を達成するための手段であったのに対し、日本のそれは人間主義的・・「利他的」ではないことに注意・・な、それ自体・・人間主義圏の拡大自体・・を目的とするためのものであったからだ、と考えているわけです。(太田)

 関東軍作戦主任参謀の石原莞爾中佐は、この年6月にまとめた「満蒙問題私見」で次のように述べている。
 満蒙を日本の領土とすることによって、日本国民の糧食問題を解決する。満州の地にある鞍山の鉄、撫順の石炭は日本の重工業の基礎を確立する。満蒙の資源は、不況を打破し日本が大飛躍するための素地を造るに十分である、と。
 関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐も、満蒙は食料品や、鉄・石炭のような重工業に必須の原料を豊富に保有し、日本の自給自足上絶対に必要な地域であるとし、最終的にはこの地を領土にすることを訴えていた。」(18~19)

⇒石原は国柱会会員たる日蓮主義者であり、板垣は日蓮宗信徒たる日蓮主義者でした(コラム#省略)が、2人とも、(満州が人間主義的に統治されるべきことを当然視しつつも、)満州を日本の勢力圏にするのは日本の国策の手段としてであると訴えているところ、その理由は、石原には最後まで杉山構想が開示されなかったからであったのに対し、板垣の方は、最終的に杉山構想が彼に開示されたと私は見るに至っている(コラム#13102)けれど、この時点ではまだ開示されていなかったためか、そうでなければ、既に開示されてはいたけれど、(大部分の)杉山構想が開示されていない日本の人々を念頭に、それらの人々に対してあえてこういう言い方をした、ということでしょうね。(太田)

(続く)