太田述正コラム#13164(2022.12.7)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その6)>(2023.3.4公開)

 「・・・1935年4月、満州国建国国債などを引き受けた日本の銀行を中心とした視察団が派遣され、一ヵ月にわたる調査のうえ7月に『満州国視察報告書が作られた。 そこでは満州の資源は、一、種類が少ない、二、品質が概して優良でない、三、日本の産業と対立競争となりやすいものが多く、自給自足に益となる資源が比較的少ない、四、国防資源が多くない、五、工業開発上、水力が乏しくて動力を得るのが困難である、などが記載されていた。
 このため財界では、北支(中国の華北地域)にブロック圏を拡大し、進出を求める意見が出てくる。
 実は『満州国視察報告書』では、北支の経済資源は豊富とし、この地を取り込んだ日満支(日本・満州・中国)の経済ブロックの結成が提案されていた。
 陸軍も独自の調査から、満州国に隣接する北支は資源が充実しているとし、経済ブロックに組み込むことを希望する意見が強くなった。
 北支は、石炭、鉄鋼、綿花、羊毛、塩といったものが満州に比べて豊富だった。
 以後、中国を治める国民政府の施政下から北支を切り離し、日本の支配下に置く華北分離工作<(注7)>が、陸軍を中心に展開されるようになっていく。・・・」

 (注7)「1935年ごろに行われた日本軍(支那駐屯軍)主導による、中国の河北省など華北一帯の分離独立をめざす政治的な工作。
 ・・・満州国に隣接する、華北5省の河北省・チャハル省・綏遠省・山西省・山東省を中国政府から分離させて傀儡政権を造り、日本が実質支配するという、満州国の拡大版をつくることを狙った。この地域は黄河流域を含みしかも河北省には北平(現在の北京。1928年に改称している)も含まれる<。>・・・
 <1935年>6月「梅津・何応欽協定」(中国側では何梅協定と云った)が成立し中国側が要求を飲んで、中国軍は華北から撤退、すべての抗日運動は禁止された・・・また同月、河北省の北の内蒙古チャハル省でも同様の「土肥原・秦徳純協定」が成立した。」
https://www.y-history.net/appendix/wh1504-046.html#:~:text=%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%93%EF%BC%95%E5%B9%B4%E3%81%AB%E5%BC%B7%E3%81%BE%E3%81%A3%E3%81%9F,%E5%8F%8D%E5%AF%BE%E9%81%8B%E5%8B%95%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82&text=%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%93%EF%BC%95%E5%B9%B4%E3%81%94%E3%82%8D%E3%81%AB%E8%A1%8C,%E3%82%81%E3%81%96%E3%81%99%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%9A%84%E3%81%AA%E5%B7%A5%E4%BD%9C%E3%80%82
 「華北分離工作は土肥原賢二らが主導した。
 中国側の呼称は、華北事変で、『中華民国史大辞典』によれば、1935年5月以降の日本軍による一連の「華北自治運動」から、宋哲元をトップとする冀察政務委員会の設置までの期間が該当し、満洲事変・上海事変・盧溝橋事変(事件)と並ぶ「事変」として認識されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%8C%97%E5%88%86%E9%9B%A2%E5%B7%A5%E4%BD%9C
 土肥原賢二(どひはらけんじ。1883~1948年)。幼年学校、陸士16期、陸大24期。「岡山県岡山市出身。・・・大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の坂西機関で対<支>工作を開始。坂西利八郎機関長補佐官、天津特務機関長を歴任。
 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させる。
 その後、華北分離工作を推進し、<自身、>土肥原・秦徳純協定を締結。この結果河北省に冀東防共自治政府を成立させた。土肥原は、・・・「満州のローレンス」と畏怖された。日中戦争では昭和13年(1938年)6月の五相会議の決定によって土肥原機関を設立した。特務機関畑を中心に要職を歴任し、陸軍士官学校長も務めた。昭和20年(1945年)4月には、・・・教育総監となる。敗戦後、三長官会議で東久邇宮内閣の陸軍大臣に推挙されたが、実際には下村定が就任。
 軍事参議官となった直後、A級戦犯としてGHQに逮捕される。極東国際軍事裁判(東京裁判)においては、特に<中華民国>が強硬に極刑を主張した。最終的に死刑<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%82%A5%E5%8E%9F%E8%B3%A2%E4%BA%8C

⇒安達が、「東北における抗日ゲリラの活発な活動が、対ソ戦備の障害となると考えた日本軍は、反満抗日運動根絶のため、その策源地とみなした華北への侵略を図った」
https://kotobank.jp/word/%E8%8F%AF%E5%8C%97%E5%88%86%E9%9B%A2%E5%B7%A5%E4%BD%9C-233368
ということも、併せて書いてくれないので、華北分離工作が、あたかも経済的理由だけでもって推進されたような誤解を与えてしまいます。
 なお、土肥原には、1931年時点で既に杉山構想が伝えられていたのではないでしょうか。(太田)

 <また、>鉄鉱石・・・原油・・・ボーキサイト<を求めての>・・・1930年代後半まで日本の東南アジア進出は、欧米の植民地宗主国が容認した範囲内での参入であ<ったが>、宗主国の法規制や政策対応が、進出の大きなハードルになっていた。
 <それでも>、この東南アジアからの原料資源の供給は、日本の軍需工業力を高め、総力戦体制形成に貢献していく。
 日本企業は政府の援助のもとで、総力戦体制の構築に必要な軍需工業力の形成を担っていく。
 そこでは、東南アジアからの原料資源が不可欠だった。
 <こういうわけで、>総力戦のための経済ブロックの形成には、日本と満州、北支だけでなく、東南アジアの必要性が強く考えられるようになっていく。」(19~25)

⇒ここでも、安達は、経済的な「大きなハードル」そのものの打破という安全保障上の理由からの日本の東南アジアへの関心に触れてくれていません。(太田)

(続く)