太田述正コラム#13166(2022.12.8)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その7)>(2023.3.5公開)

 「・・・外務省では、・・・1937年・・・6月に陸軍省より「重要産業五ヵ年計画」<(注8)>が内閣に示され<たのを受け、>・・・省内に委員会をつくって4つの方針を打ち出した。

 (注8)「重要産業五ケ年計劃要綱實施ニ附スル政策大綱(案)」(陸軍試案 昭和十二、六、一0)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C12120169200
 ちなみに、満洲産業開発五カ年計画が1937年(昭和12年)4月から、満州国で開始されていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B4%B2%E7%94%A3%E6%A5%AD%E9%96%8B%E7%99%BA%E4%BA%94%E3%82%AB%E5%B9%B4%E8%A8%88%E7%94%BB

⇒陸軍省の所管部局を教えて欲しかったところです。
 例えば、「厚生省構想は,当初陸軍省より衛生省設置案として提起されたが,この案は,枢密院審議までこぎつけるものの結局破棄される)。結局,1937年12月閣議決定された保健社会省 設置要綱に基づき,翌年厚生省が設立された。・・・当時の内閣総理大臣近衛文麿と陸軍省とは意見の対立があったとされている。・・・なお,陸軍省の構想は1937年の・・・陸軍試案「重要産業五<ケ>年計画要綱実施に関する政策大綱」・・・では保健省 となっている」
https://core.ac.uk/download/pdf/233948403.pd
からも、所管部局は陸軍省軍務課
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%8B%99%E5%B1%80
であったと一見思えるけれど、当時の陸軍大臣が杉山元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
で参謀本部第一部長(作戦部長)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE
が作戦課長時代に満洲産業開発五カ年計画策定に決定的役割を果たした石原莞爾であったこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B4%B2%E7%94%A3%E6%A5%AD%E9%96%8B%E7%99%BA%E4%BA%94%E3%82%AB%E5%B9%B4%E8%A8%88%E7%94%BB 前掲、
そして、ちょっと前まで杉山が参謀本部次長、石原莞爾が参謀本部作戦課長であったこと(典拠省略)もあり、形式上の所管部局は軍務局軍務課だが実質的な所管部局は参謀本部第一部であったと見てよさそうです。(太田)

 その一つに、日満支経済ブロックを結成し、将来は東南アジアを含むこと、すなわち日満支南洋経済ブロックの形成に導く考えを示した・・・。
 しかし、この時期の外務省の対外経済政策の方針は、ブロック経済だけでなく自由通商主義との二本立てだった。・・・
 実際、7月に日中戦争が始まると、英米などから軍需物資や製品を大量に購入する必要があ<った。>・・・
 周知のように、日本が中国国民政府に宣戦布告をせずに、支那事変という局地的紛争名を使い続けたのは、アメリカとの貿易・金融・海運・保険に関する関係を継続したかったからである。
 アメリカは中立法によって、交戦国双方に対して、武器や軍需物資の禁輸や金融上の取引制限を行うことができたからだ。・・・
 日本政府は、特に英米からの製品を輸入するときに、ポンドやドルなどの外貨で支払いをしなければならず、外貨獲得のために綿製品などの輸出振興策を取る。
 1938年から39年にかけて、第三国といわれた植民地を含む英米などとの輸出入、第三国貿易が重視され、満州国や中国占領地への輸出は抑制されていた。
 上海に戦線が拡大し中国との戦争が全面化すると、日本政府は1937年10月に内閣直属の官庁として企画院<(注9)>を設置した。・・・

 (注9)「「重要産業統制法」(1931年(昭和6年)7月公布)から始まり、五・一五事件を経て二・二六事件以後の陸軍内での統制派の勃興以後、所謂「新々官僚(新官僚)」の牙城・内閣調査局の権限は強まっていった。林内閣時代になると内閣調査局は、より強力な重要政策を立案する組織として、1937年(昭和12年)5月14日に企画庁に再編強化された(勅令第一九二号)。更に、支那事変勃発後の同年10月25日に内閣資源局と統合し企画院が発足した。ここに誕生した企画院は、国家総動員機関と総合国策企画官庁としての機能を併せ持った強大な機関だった。企画院は、重要政策の企画立案と物資動員の企画立案を統合し、以後、戦時下の統制経済諸策を一本化・各省庁に実施させる機関となり、国家総動員法(1938年(昭和13年)5月5日施行)制定以来その無謬性を強めていくこととなる。・・・
 陸軍・大蔵・商工各省の影響下にあり、各省は優秀な者らを送り、彼らは所謂「革新官僚」として、日中戦争前後の戦時統制計画の立案を担った<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%81%E7%94%BB%E9%99%A2
 「資源局は、1927年(昭和2年)、 日本の内閣の外局として設置された国家総動員準備機関である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%87%E6%BA%90%E5%B1%80

 企画院は物資動員計画(物動計画)<(注10)>や国家総動員法などの重要な計画・法案を立案し、国内の総動員体制は急速に整備されていく。」(25~27)

 (注10)「計画導入の直接的契機は,中国における戦線拡大に伴い海外からの原料輸入の配分を政策的に決定する必要が生じたことにあった」
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E8%B3%87%E5%8B%95%E5%93%A1%E8%A8%88%E7%94%BB-170473

(続く)