太田述正コラム#2101(2007.10.3)
<ミャンマー動く(特別編)(続x3)>
1 始めに
 ミャンマー情勢をフォローしていると、情勢判断を行う方法について色々考えさせられます。
2 公開情報による情勢判断
 国連事務総長の特使のガンバリ氏は、3日も待たされた後、2日、ようやくミャンマーの軍事政権の首脳達・・トップのタンシュウェ上級大将とナンバー2のマウンアエ(Maung Aye)大将を含む・・と首都のネイピドー(NaypidawまたはNaypyidaw)で1時間以上にわたって会談を行いました。
 その後、ガンバリ氏は、ヤンゴンに戻り、9月30日にヤンゴンの迎賓館で約1時間以上に及ぶ会談を持ったアウンサン・スーチー女史(注1)と同じ場所で2度目の会談を約15分間行い、ミャンマーを後にしました。
 (注1)スーチー女史と外国人との面会は、10ヶ月ぶり。
 これらの会談内容については、軍事政権もガンバリ氏も一切明らかにしていません。
 首脳達との会談が先延ばされていた時点で、これは軍事政権内で、特にタンシュウェとマウンアエとの間で、意見の対立があるのではないかと一部で取り沙汰されていましたが、ネイピドーでの会談が始まる約1時間前に、ミャンマーのニャンウィン(Nyan Win)外相が国連で、ミャンマーで「機会主義者達に唆された」少数の活動家達が「状況を煽り立てて街頭で暴力行為を行った」が、治安部隊の「抑制された」対処によって「正常な状態に戻った」、と宣言した(注2)ことから判断すると、軍事政権は、内部に小異は抱えているかもしれないけれど、反政府勢力と対話をしないという結論に達している、ということではないでしょうか。
 (注2)9月28日から弾圧が始まったが、30日(日曜)からは、デモは全く行われていない。
 会談時間の長さから、スーチー女史の要望をガンバリ氏が軍事政権首脳達に取り次いだけれど、ゼロ回答が返ってきて、ガンバリ氏はスーチー女史にその旨を伝えた、と考えると平仄が合うからです。
 以上は、公開情報の行間を読む情報判断の例です。
 (以上、
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7020465.stm
http://www.nytimes.com/2007/09/30/world/asia/30cnd-myanmar.html?ref=world&pagewanted=print
(10月1日アクセス)、
http://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/IJ02Ae01.html
(10月2日アクセス)
http://www.ft.com/cms/s/0/a60ecaee-703e-11dc-a6d1-0000779fd2ac.html
http://www.guardian.co.uk/burma/story/0,,2182388,00.html
(10月3日アクセス)による。)
3 諜報要員による情勢判断
 しかし、何と言っても情報遮断された「敵地」に関する情勢判断は、諜報要員(スパイ)に依存する部分が大きいのです。
 英BBCはヤンゴンの覆面記者からの以下のような趣旨の報告を披露しています。
 ミャンマーの人々は恐怖に戦きつつも激しく怒っている。
 1988年の時は軍部は一般市民を襲ったけれど今回は僧侶達を襲ったからだ。
 このような最悪のことを軍部がやった以上、一般市民の多くは、何らかの方法で戦いを続けざるを得ないと考え、その方法を検討している。
 僧侶達だって決して戦いを止めていない。国中の僧院は軍部の喜捨を受けることを依然拒んでいる。
 拘留された僧侶達は僧衣を脱ぐことを拒んでおり、多くがハンストを行っている。
 ヤンゴンの僧院を政府の襲撃から守ろうとしている一般市民もいると伝えられている。 中には投石用のひもや自転車のスポークで創った弓矢を持って僧院を守っている一般市民すらいるという話がある。
 また、現在でも小規模のデモが国中で行われていると伝えられている。
 よって、大規模な抗議行動が早晩また起きることは避けがたい、と思われる。
 (以上、
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7024825.stm
(10月3日アクセス)による。)
4 偵察衛星による情勢判断
 昔と違って今では、諜報要員によらずして、「敵国」の情報がある程度とれるようになってきています。
 ミャンマーの軍事政権による少数民族弾圧の実態の一部がこのほど明らかになりました。
 ミャンマー東部のカレン族地域において、軍事政権によって村々が焼き討ちされ、人々が強制的に移住させられていることが商業用偵察衛星(地上の60cm以上の大きさのものをとらえられる)の撮影した写真で明らかになったのです。
 既にジンバブエやダルフールにおける人権蹂躙を暴くことに成功した手法がミャンマーにも初めて適用され成功したわけです。
 (以上、
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1666734,00.html
http://www.nytimes.com/2007/09/29/world/asia/29satellite.html?ref=world&pagewanted=print
(9月30日アクセス)による。)
 偵察衛星が進化していけば、衛星を静止させて24時間、上空からヤンゴンのデモ隊の様子を超高解像度で撮影する、といったことが可能になるかもしれませんね。
 そうなった暁には、映像ジャーナリストの長井健司さんが射殺されたような状況だって、動かぬ証拠が得られることでしょう。
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 コラム#2102(2007.10.3)「歴史の教訓の陥穽」のさわりの部分をご紹介しておきます。
 ・・
 まず気をつけなければならないことは、歴史は全く同じ形で繰り返されることはない、ということです。
 ・・
 ・・キューバ危機の時、ケネディ・・政権の閣僚の中には、ただちに・・<攻撃>しないと・・英国首相チェンバレン・・による対ヒットラー宥和政策の二の舞になると主張した人々がいました。
 これに対し、ケネディ大統領は、それでは真珠湾の逆のケースになってしまうと反論し、海上封鎖で対応することを選択し、最終的に危機は回避されることになりました。
 更に、米国のベトナム戦争への本格介入の前、ジョンソン・・政権内では、朝鮮戦争を教訓とする者や上記の対ヒットラー融和策を教訓とする者が多く、・・フランスのベトナムからの撤退を教訓とする者が少なかったため、結局米国は本格介入することとなり、その結果は惨憺たるものになりました。
 うまくいった前者は適切な歴史を教訓としたからだし、失敗した後者は不適切な歴史を教訓としたからだ、と思われるかもしれません。
 しかし、・・歴史は全く同じ形で繰り返されることはありえないのであって、歴史を教訓的に用いることには自ずから限界がある、ということではないでしょうか。
 ・・
 次に気をつけなければならないことは、われわれはしばしば歴史を歪曲して身につけているということです。
 歪曲された歴史は、教訓的に用いることの限界を論ずる以前に、そもそも教訓的に用いてはならないのです。
 
 <前出の>チェンバレンの・・融和策は、歴史の教訓の定番になっていますが、チェンバレンに対するこのような見方は誤りだ、と<する>・・次のよう<な指摘があり>・・ます。
 チェンバレンはミュンヘンでのヒットラーとの首脳会談で、第一に弱小国(チェコスロバキア)を犠牲として独裁者に捧げるという不名誉を犯した、第二にヒットラーに対して宥和したことによってヒットラーをより侵略的にしてしまい、必然的に、より大規模で血腥い戦争をもたらした、と一般に非難されている。
 しかし、第一について言えば、チェンバレンが世界戦争を回避しようとしたことは決して非難されるべきではない・・彼はより大きな悪を回避するために小悪を甘受した・・のだ。
 第二について言えば、ヒットラーはあの時点で戦争が起きるのを望んでいたのであり、ミュンヘン会談の結果臍をかんだのはヒットラーの方であったことがこのところの研究で明らかになっている。
 実際、戦争を<一年先に>・・延ばしたことで、英国は空軍力の増強を図ることができ、おかげで英本土の制空権をめぐるドイツとの戦い・・に勝利することができたのだ。
 それに、<ミュンヘンの>の時点では英国の世論は圧倒的に戦争反対だった。だからこの時点で開戦していたら、英国の国論は分裂していただろう。ヒットラーがミュンヘン協定を破り、更にポーランドに侵攻したことによって、<翌>年<、>英国の世論はこぞって開戦に賛成したのだ。
 更に、百歩譲って英国は<ミュンヘンの時点で>・・開戦すべきだったとしても、それでもなおチェンバレンを責めるのは酷というものだ。
 というのは、ナチスドイツのように好戦的で向こう見ずな独裁体制は歴史上稀だからだ。
 ・・
 ここのところが分かっていなかったために、・・イーデン<がエジプト攻撃という、そして>・・ジョンソン<が>・・ベトナム戦争に本格介入するという>・・過ちを犯したのだ。
 ・・
 一筋縄でいかないからこそ、歴史は面白い、と思いませんか?