太田述正コラム#2109(2007.10.7)
<ナチスの犯罪と戦後ドイツ(その1)>
1 始めに
 英語版ウィキペディアで「ホロコースト」を調べる(
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Holocaust
。10月7日アクセス)と、「<先の大戦中に>ナチスによって直接的または間接的にコントロールされていた領域には800万人から1,000万人のユダヤ人がいた(ソ連にいたユダヤ人の数についての知識が欠けているので数字がはっきりしない)。・・占領されたソ連の領域内で80万人から100万人のユダヤ人が任務集団(Einsatzgruppen。ナチスの民兵組織(太田))によって殺害された(任務集団による殺害についてはしばしば記録が残されていないため、概数しか分からない。)」とあります。
 要するに、ソ連の領域内でのユダヤ人殺害数ははっきりしていないわけです。
 また、「<ナチス>体制によって殺害された<ユダヤ人>以外の集団として、ジプシー、ソ連の捕虜、障害者、同性愛者、物見の塔信徒、カトリック教徒たるポーランド人、そして政治犯が挙げられる。」ともあります。
 しかし、このリストには「黒人」が落ちています。
 
 今回は、ウクライナでのユダヤ人殺害の詳細を明らかにしょうとする試みと、黒人による、ナチスの黒人殺害糾弾の動きをご紹介し、ナチスの犯した犯罪の巨大さに改めて思いを致した上で、戦後ドイツがいかにナチスの犯罪に対する責任と向き合うことを避けてきたかを指摘したいと思います。
2 ウクライナでのユダヤ人殺害
 10月の第1週にパリで、ウクライナでのユダヤ人殺害に関する国際会議が開かれ、フランス・イスラエル・ドイツ・米国等の研究者達が初めて一同に会しました。
 バルト地帯を除くソ連、すなわちウクライナ・ベラルス・モルドバ・ロシア西部における先の大戦中のユダヤ人殺害について、確たる事が分からなかったのには理由があります。
 当然、ナチス当局はこの事実をひた隠しにしました。
 また、ソ連当局は戦後、赤軍のナチスドイツ軍に対する戦いの歴史研究は奨励しても、こんな分野の歴史研究には色よい顔をしませんでした。そもそも、ソ連がロシア時代のポグロムの「伝統」を受け継いでおり、ソ連の人々の嫌ユダヤ人感情を許容していた、ということも研究を妨げました。
 更に、1941年に独ソ戦が始まると、ウクライナの警察はドイツ軍部隊がウクライナ西部に到達することを見越して、「敵性勢力」とみなされたところのユダヤ人達をかり集め殺害を始めていたとか、上記任務集団やドイツ軍のユダヤ人殺害に直接的間接的に協力させられたウクライナ人が多数おり(注1)、中には積極的に協力した者もいた、といったことも研究の足を引っ張ったのです。
 (注1)集団墓地の穴掘り、ナチス民兵やドイツ軍の食事の調理、殺害前にユダヤ人から脱がせた衣服の仕立て直し等に従事した。
 ですから、比較的最近まで、はっきり分かっていたのは、1941年にキエフ近くのバービーヤール(Babi Yar)渓谷で行われたユダヤ人34,000人の殺害くらいだったのです。
 しかし、ようやく1941年から1944年にかけて、ウクライナにいた約240万人のユダヤ人のうち140万人から150万人が殺害されたらしい、という程度までは分かってきました。
 この間、特に大きな研究成果を挙げたのが、フランス人のカトリック神父のデボワ(Patrick Desbois)が率いる研究集団です。
 彼らはこの4年間、ウクライナ人700人以上にインタビューを行い、これまでほとんど知られていなかったところの、殺害されたユダヤ人の集団墓地を600箇所以上つきとめ、関連資料を収集し、ようやくウクライナの三分の一の地域をカバーすることができました。
 インタビューされた人々の証言から、殺害されるユダヤ人の悲鳴を聞きたくないので、殺害中ナチスは空のバケツを叩いていたとか、ユダヤ人女性は強姦されてから殺害されたとか、子供も殺害された、といったことが分かってきました。
 また、殺害に当たってユダヤ人一人当たり一発の弾丸の使用しか認められていなかったため、撃ち損じてまだ生きているのに埋められる人もあり、そのため集団埋葬地が何日間も微動していたこともあった、というのです。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/10/03/AR2007100301719_pf.html
(10月4日アクセス)、及び
http://www.nytimes.com/2007/10/06/world/europe/06priest.html?ref=world&pagewanted=print
(10月7日アクセス)による。)
(続く)
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 有料版のコラム#2110(2007.10.7)「完全なスパイ(その1)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
 コラム全文を読みたい方はこちらへ↓
http://www.ohtan.net/melmaga/
1 始めに
 ・・人生をまっとうした有能なスパイ<を>・・二人をご紹介したいと思います。
 一人はベトナム戦争時のベトナム人であり、もう一人は先の大戦時のオーストリア人です。
2 ベトナム人
 まず、ベトナム戦争当時にサイゴンで米タイム誌の記者を務める一方で北ベトナムのスパイを務めていたファム・ホワン・アン・・の話です。
 ・・
 タイムの記者時代の彼は、他社の米国人ジャーナリストにも気軽に情報を与えたり人を紹介したりしたので、南ベトナムに派遣された米国人ジャーナリストはみんな彼の友人になったものです。
 こんな彼だったので、南ベトナム政府要人や軍の幹部、及び在南ベトナムのCIA要員を含む米国政府関係者達に知人友人が多く、彼らから突っ込んだ情報がとれました。
 アンがスパイとしてどんなめざましい働きをしたのか、三つだけ挙げましょう。
 <省略>
 また、1967年末に北ベトナムは彼に1968年初めにテト攻勢をかけると伝えてきました。 アン自身は、テト攻勢をかけても南ベトナム民衆が叛乱に立ち上がることはなく、無意味であると思っていましたが、サイゴン中を回って脆弱な地点を探し出し、事前に北ベトナム軍の指揮官を変装させてサイゴンに連れてきて、直接これらの地点を案内しました。
 これがテト攻勢の時のサイゴン潜入作戦にどんなに役立ったかは言うまでもありません。
 <省略>
 ・・
 アンが2006年に亡くなった時、軍事的儀式にのっとった公的葬儀が盛大に行われましたが、かつての南ベトナム派遣米ジャーナリスト達から多数の、友人たるアンに敬意を表し、感謝する弔辞が寄せられました。
 これは不思議ではありません。
 アンはベトナム戦争中、何千何万という米国人を死に至らしめた一方で、米ジャーナリスト達の命も数多く救ったからです。
 ・・
(続く)