太田述正コラム#13172(2022.12.11)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その10)>(2023.3.8公開)

 「・・・1940年春にドイツはヨーロッパで攻勢に出た。
 オランダを占領し(オランダはイギリスに亡命政府を樹立)、フランスを屈服させて親独政権をつくった。
 日本はこれを蘭印と仏印の両地域に進出する好機と捉えた。
 7月22日に再び近衛文麿が首相に就き第二次近衛内閣が成立すると、外相には松岡洋右が就任した。
 仏印には、中国へ仏印経由で援助物資を送る、いわゆる援蒋ルートの閉鎖を認めさせた。
 さらに松岡外相は極東における日本の経済的政治的分野での優越的地位をアンリ<(注19)>駐日仏公使に認めさせ、中国と国境を接する州に日本の軍事的な便宜を与える協定を結ばせた。

 (注19)Charles Arsène-Henry(1881~1943年)。「1920年駐日大使館員として来日する。<19>28年駐タイ公使、[1930年駐カナダ大使、1934年]駐デンマーク公使を歴任し、’3[6]年駐日大使となる。第二次大戦中、日仏軍事協定締結に尽力する。」
https://kotobank.jp/word/C.A.%20%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA-1617886
https://www.wikidata.org/wiki/Q29510441
 ・・・Art lover and collector・・・ of Japanese art・・・, he wrote in 1941 a memoir entitled Japanese tapestries and silks where contribution to the study of the aesthetics and decoration of fashioned silks and Japanese tapestries of the Tokugawa period (1603-1856). He is the author of Essays on Civilization and Coherence and Harmony of Things (1934).・・・
 Death November 14, 1943 (age 62) Tokyo・・・
https://fr.wikipedia.org/wiki/Charles_Ars%C3%A8ne-Henry ([]内も)
 なお、ウィキぺィアでも、アンリの日本大使赴任時期を1937年としているものがある。
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_ambassadors_of_France_to_Japan

⇒アンリは公使ではなく大使です!
 フランスが、戦前、英連邦構成国でフランス語圏のあるカナダに大使を、タイやデンマークには公使
https://fr.wikipedia.org/wiki/Liste_des_ambassadeurs_de_France_au_Danemark
を、そして、日本には大使を送っていた、というのは面白いですね。(太田)

 この協定に基づいて、援蒋ルートの遮断を監視し、重慶への攻撃作戦、日本の東南アジア進出の足がかりとするため、日本は9月には北部仏印に陸海軍部隊を進駐させる。<(注20)>」(31~32)
 (注20)「1940年・・・6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した。カトルー総督は、シャルル・アルセーヌ=アンリ駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団(西原機関、団長西原一策少将)の受け入れを行った。カトルーの受諾は時間稼ぎの目的があり、<米国>から武器を購入しようとした上で、<英>外相ハリファックス伯に軍事的援助を要請しているが、拒絶されている。
 独仏休戦協定が成立した6月22日に、ヴィシー政権はカトルーを解任した。カトルーの独断行動が直接の原因だったが、自由フランスに近いことも忌避の要因だった。後任の総督はフランス極東海軍司令官のジャン・デク―提督だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%8D%B0%E9%80%B2%E9%A7%90
 「富永恭次参謀本部第1部長らの強硬意見にもとづき現地交渉の結果,9月22日平和進駐に関する協定が成立したが,23日現地の陸軍第5師団の一部が鎮南関付近で独断越境してフランス軍と交戦し,25日フランス軍は降伏した(北部仏印進駐)。そのため日本と<米英>との対立が強まり,<米国>は9月26日屑鉄の対日禁輸を発表し,<英国>も10月18日援蔣ビルマ・ルートを再開した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E9%83%A8%E4%BB%8F%E5%8D%B0%E9%80%B2%E9%A7%90-132778
 Georges Albert Julien Catroux(1877~1969年)。’・・・a French Army general and diplomat who served in both World War I and World War II<.>・・・after the first Japanese ultimatum of 17 June 1940, and following disagreements with the new Vichy government, Catroux was ordered to hand over his post to Admiral Jean Decoux on 25 June. He initially ignored the order, and only resigned on 20 July.
 He then chose to join de Gaulle, who was by now leader of the Free France movement. As a five-star general, Catroux was the most senior officer of the French Army to transfer allegiance・・・’
https://en.wikipedia.org/wiki/Georges_Catroux
 Jean Decoux(1884~1963年)。’・・・a French Navy admiral<.>・・・On 13 January 1939, Decoux was appointed Commander-in-Chief of the Naval Forces in the Far East<.>・・・
 From 25 June 1940 he served as interim Vichy French Governor-General of Indochina, succeeding General Georges Catroux. His functions were established on 29 August the same year.
Like his predecessor, Decoux initially wished to continue the fight against the Axis powers, but he swore allegiance to Pétain’s regime after realizing that his meager armed forces were no match for the Japanese.・・・’
https://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Decoux

⇒その後、「富永自身がこの武力進駐を直接指揮したわけではないが、・・・<彼が>武力進駐を煽るような行動をとったため、南支那方面軍や第5師団の独断越境をまねくこととなってしまった<ことが咎められ、>・・・実際に武力進駐を指揮した軍司令官の安藤や師団長の中村<は>処分されて予備役とな<り、>富永は・・・東部軍司令部付の閑職に回された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%8D%B0%E9%80%B2%E9%A7%90 前掲
のですが、その時の、参謀総長は閑院宮、参謀本部次長は澤田茂、陸相は東條英機、陸軍次官は阿南惟幾、です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/gunbu/rikugun-zikan.htm
 閑院宮は、参謀総長をその年の10月3日に辞任するところ、この北仏印進駐が、彼の最後の大仕事になったわけですし、東條と阿南は、対米英戦の開始を翌年にも控えつつ陸軍の運用面での(違法な)過度の下剋上の根絶を陸軍内外にアピールしたわけです。(太田)

(続く)