太田述正コラム#13176(2022.12.13)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その12)>(2023.3.10公開)


[大東亜共栄圏の背後にあった「八紘一宇」思想について]

 「第二次世界大戦に至る中で、「八紘一宇」は「天皇総帝論」であり、それはまた<、>「唯一の思想的原動力」「天皇中心の世界一体観」「大宇宙をも包含するが如き深遠宏大なる日本肇国理念」「真日本の発見」「純なる日本的世界観」「古事記の発見」「天皇政治の世界性」「大和民族の宿志」「大和民族本来の世界史的使命]「神武天皇が抱懐せられたる世界史的御雄図」「惟神(かんながら)的世界観」等であると認識されていった。こうした八紘一宇・天皇総帝論の由来は、「天皇信仰の主唱者」「世紀の予言者」と呼ばれていた幕末の国学者・大国隆正<(注23)>が唱えた議論だった。

 (注23)おおくにたかまさ(1793~1871年)。「津和野藩士今井秀馨の子として江戸桜田江戸藩邸に生まれた。・・・
 国学ばかりか儒学・蘭学・梵学を一通り学ぶと、以後文人墨客との交わりを絶ち、専ら神代の古事、皇朝学、五十音図に関する諸書の研究を決意、「古伝通解」「矮屋一家言」の稿をおこした。文政11年、津和野藩の大納戸武具役となったものの、学志を捨てられず同僚の誹謗に憤り翌12年に脱藩、姓を野之口とした。
 天保2年に父が死去すると家が没落するばかりか、天保5年の大火により著書や蔵書・家財を悉く失うという悲運にも遭った。その後単身、大阪へ赴いてその日記として「歌日記」を著す。以降、国学を京都・摂津で講じ、「古事記」奏上序の本教神理に因んで本教本学と称した。これは「国学」という呼称が妥当性を欠くものとしてこれを使わなかったためで、後に各地の藩校で講じる場合でも「国学」ではなく「本学」と称した。
 天保7年に播磨小野藩主・一柳末延の招請を受け、藩校・帰正館を開校し藩の子弟を教育。天保12年に小野藩を辞去し、京都へ戻って報本学会で教授。嘉永元年に今度は姫路藩に招かれ、和学校好古堂で国典を講じた。更に備後福山藩主・阿部正弘からも相談相手として招かれ、さらに藩校誠之館でも教えた。
 そうした活動の中、皇道の復興を主張すると共に尚武の国体を講明。「倭魂」を著わして幕府から処罰を被り兼ねない事態となったが、知遇を得た徳川斉昭の庇護下で何とか捕縛を免れる。以降は江戸や京都、津和野を頻繁に奔走し、嘉永3年1月14日に関白・鷹司政通に謁見、それを機に宮中にて皇典を講じて皇室復興を説く。
 翌嘉永4年9月15日には津和野藩主亀井茲監によって藩籍を復し、国学を以って本学とすべしと上申し、5人扶持を給して藩黌養老館国学教師となる。嘉永6年にペリーが来航すると、儒者らの説く海防論に対して、自ら「文武虚実論」6巻を上梓。その中で海防の要は虚文虚武を斥けて実文実武を努めるにあると論じ、和魂を鞏固にし以って我が国を宇内に冠絶させるべきであると独自の尊王攘夷論を展開した。安政2年には、「本学学要」2巻を著わし、我が国が宇内万国に卓絶する所以を述べ、天壤無窮の皇位は世界万国に君臨すべき神理があると説いた。
 文久2年、石見国にオオクニヌシの古跡をみつけて神社を復興させ、自らを大国と改姓した。
 慶応3年、フーゴー・グローティウス『自由海論』への批判書ともいうべき『新真公法論』を著した。明治元年に大国は徴士となり、明治維新を経て神祇事務局権判事にな<り、>[旧藩主亀井茲監(かめいこれみ)らとともに、神仏分離や廃仏毀釈などの神道主義を指導し<た後>、]老齢故に職を辞し、神祇局の諮問役、宣教使御用掛としても勤めるが、明治4年8月、東京にて没した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%9A%86%E6%AD%A3
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%9A%86%E6%AD%A3-17866 ([]内)
 著書の一つに本学挙要がある。「安政2 (1855) 年 64歳の作。付録として『馭戎問答』がある。著者の立宗綱要ともみるべきもので,幕末人心急のおり,世界を統一すべき「もとつおしへ」として「忠孝貞」の道があることを高唱し,もって「宝祚無窮」の実を顕揚し,国威を四方に宣布することを力説したもの。「本学」とは『古事記』序文にある「本教」の旨を学び知る学術の意で,隆正の造語。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E5%AD%A6%E6%8C%99%E8%A6%81-134982

これは要するに、天皇は世界の皇帝たちよりも上の地位にあり、歴史の「必然」として世界の「総帝」であるという主張だった。八紘一宇においては、天皇が「現人神」「唯一天皇」「唯一神」「真神」「絶対至尊」などと見なされるようにもなった。このようにして、大国隆正のような国学者たちが足がかりにされ、「八紘一宇」が日本建国の理念へと結合されて、「伝統の発明」が完成した。

⇒「隆正<は、>・・・厩戸(聖徳太子)が仏教尊崇により「わが本教をうずもらせた」ととらえ、さらに、その後の律令国家の成立=中央集権的な国家体制の確立を「封建制から郡県制への転換」とみなし、望ましき社会制度が実現していた世=封建制から、望ましからざる社会制度の世=封建制へと転換したと考えるのである。・・・隆正は<また、>・・・後醍醐・南朝の正当性を否定している<。>」(波田永実「大国隆正の歴史認識と政治思想」より)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjR-cq68PX7AhVEsVYBHYDFBjQQFnoECA0QAQ&url=https%3A%2F%2Frku.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D3437%26file_id%3D18%26file_no%3D1&usg=AOvVaw1F0QFwBOrGVhozi9LkMhYz
と、日本の古代は封建制であったなどという誤った歴親認識に立ち、日蓮主義的歴史観を否定していることから、彼が言う「本教」が何であったのかを論じるまでもなく、大国の功績は、日本を中心とする「八紘一宇」、という概念を生み出したというただ一点だけにある、と言うべきだろう。(太田)

 この言葉が日本でよく知られるようになったのは『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」(いわゆる橿原奠都の詔)である]。
 「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」(上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。)— 日本書紀巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」
 この意味について、記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀っている橿原神宮は以下のように説明をしている。
 神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。昭和天皇が歌に「天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」とお詠みになっていますが、この御心も「八紘一宇」の精神であります。
 日本書紀の元々の記述によれば「八紘為宇」である。「八紘一宇」というのはその後、戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して使用し、縮約した語である。ただし現代では、「為宇」の文字が難解であるため、「八紘一宇」の表記が一般的となっており、神武天皇の神勅について言及する際にも「一宇」が用いられる例がしばしば存在する。また「八紘」という表現は古代<支那>でしばしば用いられた慣用句を元としている。・・・
 大正期に日蓮宗から在家宗教団体国柱会を興した日蓮主義者・田中智學が「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に着眼して「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であると解釈、その結果「掩八紘而為宇」から「八紘一宇」を道徳価値の表現として造語したとされる。これについては1913年(大正2年)3月11日に発行された同団体の機関紙・国柱新聞「神武天皇の建国」で言及している。田中は1922年(大正11年)出版の『日本国体の研究』に、「人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である」と述べている。もっとも、田中の国体観は日蓮主義に根ざしたものであり、「日蓮上人によって、日本国体の因縁来歴も内容も始末も、すっかり解った」と述べている。・・・
 <なお、>田中は、その当時から戦争を批判し死刑廃止も訴えて<いる。>・・・

⇒田中智學は、大国の八紘一宇を日蓮主義的に再定義することで、(その後に策定される)杉山構想を支える思想を(結果的に)生み出したと言ってよい。
 私の言葉で説明すれば、それは、国民の大部分が人間主義者である日本は、そういう日本人の象徴たる天皇を戴きつつ、全世界に人間主義を普及し、世界の大部分の人々を人間主義者にする使命があり、この使命を達することで、紛争の原因の大部分が取り除かれ、死刑や戦争の必要性もなくなる、という思想だったのだ。(太田)

 1936年(昭和11年)に発生した二・二六事件では、反乱部隊が認(したた)めた「蹶起趣意書」に、「謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり」とある。この事件に参加した皇道派は粛清されたが、日露戦争以降の興亜論から発展したアジア・モンロー主義を推し進める当時の日本政府の政策標語として頻繁に使用されるようになった[要出典]。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87

(続く)