太田述正コラム#2121(2007.10.13)
<まるでダメなイタリア(その1)>
1 始めに
 これまで、現代のイタリアを正面から取り上げたコラムは1回(ベルスコーニに関する#130)しかありません。
 ことほどさように、政治的ないし文明論的観点からはイタリアはまるでダメな、取るに足らない存在であるということです。
 今回は、どのようにイタリアはダメで、その原因はどこにあるかを考えてみたいと思います。
 手がかりにするのは、英国のイタリア史家ダガン(Christopher Duggan)の’THE FORCE OF DESTINY: A HISTORY OF ITALY SINCE 1796’です。
 例によって、この本の書評から、ダガンや書評子達の言に耳を傾けることにしましょう。
 (以下、
http://www.ft.com/cms/s/0/edcf0b92-760a-11dc-b7cb-0000779fd2ac.html
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2007/09/29/bodug129.xml
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/history/article2315378.ece
http://findarticles.com/p/articles/mi_qa3724/is_20070908/ai_n20502818/print  (いずれも10月13日アクセス)による。)
2 ダガンらのイタリア
 (1)イタリア統一について
 フランスのナポレオン(Napoleon Bonaparte。1769~1821年)のイタリア遠征が行われた1796年の時点に立ち返ってみると、オーストリアの宰相メッテルニッヒ(Prince Klemens Wenzel von Metternich。1773~1859年)が1847年に喝破したように、単なる「地理的表現(geographical expression)」に過ぎなかったイタリアが統一されるなんて誰にも想像できなかったろう。
 ところが、1861年に、南部イタリア(Mezzogiorno)のナポリ・シチリアを支配していたブルボン家、北東部イタリアのアドリア海沿岸を支配していたハプスブルグ家(オーストリア帝国)、中部イタリアを支配していた教皇庁の軛を脱してイタリアは統一(Risorgimento)される。
 こうして、ゲリラの指導者ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi。1807~82年)(コラム#547)とピエモント・サルディニア王国の宰相カブール(Camillo Benso, conte di Cavour。1810~61年)を指導者とする自由の戦士・啓蒙的貴族・農民匪賊らによる、これら支配勢力との長期にわたる自己犠牲的な激しい戦いによってイタリアが統一された、という神話が生まれた。
 しかし実際には、イタリア統一は、一つの戦争によってなったというより内戦の連続の結果としてなったのであったし、しかもその内戦は、フランスとプロイセンとオーストリアの三つどもえの戦いがイタリアを舞台に繰り広げられたというのが実態に近い。
 第一、当時のイタリア人達で統一を望んでいたのはごくわずかだったし、統一までの間に戦死したイタリア人の数は、エチオピアとの戦争での1896年のアドワ(Adowa)の戦いにおけるイタリア人の戦死者の数の1日分程度に過ぎない。
 神話が生まれただけではない。
 統一が北部のイニシアティブで行われたこともあって、イタリア南部(ナポリ・シチリア=シチリア王国の領域)に対する差別意識が北部で確立した。
 だから、統一イタリアの最初の首都は南部近くのローマにではなく、北部のトリノ(Turin)に置かれた。
 北部の人間は、「腐敗した」南部イタリアとの統一を、天然痘患者と同衾するようなものだと評し、南部は欧州には属さないと蔑んだ。
 また、北部人たる犯罪学者のロンブローゾ(Cesare Lombroso。1836~1909年)は、南部イタリア人は犯罪性向の高い身体的特徴を有するという学説を唱えた。
 確かにシチリアは腐敗しており、親分子分関係や親族関係が絶対視される政治的文化的風潮があり、現在も基本的に変わっていない。
 しかし、ナポリに関しては、統一前までは北部より進んでいた。
 イタリアで最初に鉄道が敷設されたのも、蒸気船が建造されたのも、ガス街路灯が整備されたのもナポリだったのだ。
 北部がシチリアを中心とする南部に対して、統一後、1870年代から90年代にかけてやったことは、米国がフセイン政権打倒後のイラクにやったことを彷彿とさせる。
 権力を失ったブルボン家の元官僚達は、世俗主義的な北部への嫌悪感と向上しない農民の生活への怒りを背景に、北部による支配への抵抗運動を操り続けたものだ。
 
 このように、イタリアの歴史は外国勢力や超国家的勢力に長く支配された歴史であったし、イタリアの南部に関しては、その後も北部による支配が続いたこともあり、イタリア人には権力への不信感が染みついており、だから反社会的行動を正当化する心理があるのだ。
 脱税を罪悪視するどころか、是とするイタリア人の物の考え方のルーツはここにある。
 いずれにせよ、問題はイタリアという地理的地域の統一によっても、イタリア人なるものは生まれなかったことだ。 
 こうして、統一以降のイタリアの最大の課題は、イタリア人を創出することだという話になった。
 ここから、イタリア現代史の悲喜劇が生まれることになる。
(続く)
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 有料版のコラム#2122(2007.10.13)「集団自決問題と沖縄(その2)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
 コラム全文を読みたい方はこちらへ↓
http://www.ohtan.net/melmaga/  ・・
 ・・EUでは一人当たりGDPが高い国から低い国へ毎年移転支出が行われています・・が、同様の考え方に則り、日本のどの都道府県より一人当たり域内総生産が低い沖縄に日本から毎年移転支出が行われることになります・・。
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 言うまでもないことですが、沖縄では自由に教育・文化政策を決めることができるようになるのであって、教科書検定制度を採用するのであれば、例えば集団自決についての既述についても、自由に検定方針を決定することができるようになります。
 肝腎なのは、EUの加盟国の中に、NATOに入っていないスウェーデン・アイルランド・オーストリア等の国があるように、沖縄も自国だけで自由に安全保障政策を決定できることです。
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 ・・沖縄の基地問題は、抜本的に解決されることになります。
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 日本の人口は沖縄の94倍もあり・・、これでは「連合」の体をなさないではないか、という声が挙がりそうですが、EUでも人口の一番多いドイツは一番少ないルクセンブルグの172倍の人口がある・・ことを思い出すべきでしょう。
 それに、AUの発足時には加盟国が2か国だけだとはいえ、加盟国が増えていくことは大いにありえます。
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 沖縄のイニシアティブで、このような夢のあるAUなる枠組みができれば、素晴らしいと思いませんか・・。
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 なお、私のこの提言は、EUがあるからこそ、欧州や英国で、フランダースのベルギーからの独立やスコットランドの英国からの独立が現実性を帯びてきた(・・コラム#2071、2103も参照のこと)という事実を踏まえてのことです。
 一つの国を構成していることに、若干なりとも違和感を覚えている地域があるとして、その地域の人口が少ない場合、裸で独立国になることは躊躇せざるをえないけれど、EU的な枠組みの下であれば、安心して独立国になれる、ということです。
 皆さんのお考えもお聞かせ下さい。
(完)