太田述正コラム#13190(2022.12.20)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その17)>(2023.3.17公開)


[インドネシア軍政をめぐって]

 「1943年5月31日の御前会議で、日本の占領地の具体的な統治の仕方に[・・大東亜政略指導大綱・・]ついて決定していますが、インドネシアは直接の領土にすると決めております。「マレー、スマトラ、ジャワ、スマトラ、セレベスは帝国領土と決定する」「重要資源の供給源とする」。つまり、独立させないという決定なのです。」(藤原彰「日本のインドネシア占領と独立運動」より)
http://www.ei-en.net/frenet/kouen5.htm
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E4%BC%9A%E8%AD%B0-91666 ([]内)

⇒否定的見解を抱く識者らは、上掲の大東亜政略指導大綱
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%94%BF%E7%95%A5%E6%8C%87%E5%B0%8E%E5%A4%A7%E7%B6%B1
を持ち出すようだが、「(イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ〈極力之ガ開発竝ニ民心ノ把握ニ努ム〉  
(ロ)〈前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ應シ努メテ政治ニ参與セシム〉」
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%94%BF%E7%95%A5%E6%8C%87%E5%B0%8E%E5%A4%A7%E7%B6%B1 (〈〉は私が付け加えた)
のうちの〈〉を引用しないのはいかがなものかと思う。
 (なお、「七 大東亜会議 以上各方策ノ具現ニ伴ヒ本年十月下旬頃(比島独立後)大東亜各国ノ指導者ヲ東京ニ参集セシメ牢固タル戦争完遂ノ決意ト大東亜共栄圏ノ確立トヲ中外ニ宣明ス」という項もあり、この大綱で、マライとインドネシア各地からは大東亜会議に「指導者」を、かくかくこのような理由で参集させない、参集させることができない、理由を明らかにした形になっている。)
 より大きな問題は、対英米戦中、いわば、日本政府を内面指導していたところの、帝国陸軍の杉山らの上層部が、私見では、この対英米戦が、日本軍の降伏の形で終わるであろうことを知っていたことだ。
 そうだとすれば、「帝国領土ト決定」や「重要資源ノ供給源・・・」には何の意味もなく、意味があるのは、〈〉内の部分だけだ、ということになろう。
 その結果、日本軍が降伏した後、マライやインドネシアで何が起きる可能性が高いと杉山らが想像していたか、こと改めて説明するまでもあるまい。
 いずれにせよ、否定的見解を抱く識者らが、下掲↓の諸事柄への言及を避けるのは著しくバランスを失している。(太田)

 「a 独立準備組織の設置

 1944(昭和 19)年9月7日、小磯国昭首相は第 85 帝国議会における施政方針演説の中で「帝国ハ東『インド』民族永遠ノ福祉ヲ確保スル為メ、将来其ノ独立ヲ認メントスルモノナルコトヲ茲ニ声明スルモノデアリマス」と、インドネシアの独立認容を発表した。
 いわゆる「小磯声明」である。しかしながら、独立の時期は明示しないなど、独立問題の本質的な前進にはほど遠く、インドネシア民衆は内容の具体化を希求するに至った。軍政当局は、戦局の悪化もあり、具体的措置として(昭和 20)年3月1日、独立準備調査会の設置を発表した(5月、正式に発足)。本調査会の目的は、独立準備のために必要な一切の問題を調査研究することにあった。日本側としては、インドネシアは地理的、人種的あるいは社会構造的に複雑な問題を抱えているので、政体、国家組織、宗教、国民、領土の範囲など独立に関する基本的問題の調整と準備に相当長時日を要すると考えていたが、それらはわずか2回の会議で討議を終了した。インドネシア側委員の努力はもちろんであるが、日本人は特別委員として参加し、参考意見を述べることだけが許されていたことやジャワ軍政監であった山本茂一郎少将が日本人委員に「一般委員に自由に発言研究をなさしめ、これを指導したり誘導しないこと」などの注意を与えていたことも大いに影響していると思われる。7月17日、最高戦争指導会議は「大東亜戦争完遂ニ資スル為帝国ハ可及的速カニ東印度ノ独立ヲ容認ス之ガ為直チニ独立準備ヲ促進強化スルモノトス」と、インドネシアの独立方針を決定し、8月7日には独立準備委員会の設立が発表された。同委員会は、8月18日に正式に発足する予定であったが、終戦に伴い、それは幻に終わってしまった。
日本が小磯声明においてインドネシアの独立を認容した意図は、ジャワを兵站基地として確保するための住民協力に代償を与えることやインドネシアの独立時期を引き延ばすための時間を稼ぐことなどにあったが、独立準備調査会が設置されたことにより、かえって民族主義指導者によるインドネシア独立に向けた準備は大きく前進した、あるいは少なくとも大きく前進する機会が与えられ、独立問題発展の契機となったと言えるのではないだろうか。独立問題調査会における会議でのインドネシア建国の大原則の表明や憲法草案の作成があったればこそのパンチャ・シラ、1945 年憲法であり、独立準備調査会が独立宣言後の行動に大いに役立った証左であろう。・・・

b 軍事・準軍事組織の創設と教育訓練等

  インドネシアの国軍は、1945(昭和 20)年10月5日の建軍布告に基づき、人民治安軍が国軍として誕生して以来、人民保安軍、インドネシア連邦共和国軍等を経て今日に至っている。人民治安軍は、(昭和 18)年 10月3日に設置されたジャワ防衛義勇軍(通称ペタ)を中核として編成されており、ペタがインドネシア国軍の母胎と言える。ペタは、同年4月末頃から募集が開始された兵補とともに、日本軍の蘭印防衛のための兵力不足を補うために創設された。日本軍政下でインドネシア人が武器を持つことが初めて許された組織で、地元出身青年を核とする郷土部隊の性格を備えていた。元ペタ兵士は「日本人は団結と民族主義的な誇りを教え込み、行政のやり方を教え、義勇軍や兵補の教育を通じて戦闘能力を与えてくれた。これは日本人のインドネシアに対する偉大な貢献であり、これなくしてわれわれの独立達成はありえなかった」、あるいは「私は当時、日本の訓練を受けました。とても厳格な規律が、闘争に参加していた私たちすべてのインドネシアの青年を形づくり、軍事知識は完全とはいえないまでも、私たちにオランダに立ち向かっていく力を十分に与えたのです。・・・日本軍に与えられたこの訓練のおかげで、その後オランダに立ち向かう十分な力を組織することができ、大変役に立つことになったのです」と回想している。その創設目的は日本軍の軍事力の補強(補完)であったが、義勇軍将兵等に対する厳しい軍事訓練や精神教育はインドネシア青年に軍事技術ばかりでなく、反オランダ意識や規律、闘争心などを育み、それらがオランダとの独立戦争や独立後の国家建設に役立ったと言えよう。
また、日本軍政当局は、義勇軍や兵補のような軍事組織ばかりでなく、青年団、警防団、ジャワ奉公推進隊、回教青年挺身隊などの準軍事組織(青年組織)を編成(創設)し、これらに軍事教練を実施した。特に、ジャワ奉公推進隊および回教青年挺身隊は、独立革命の中で有力な武装集団に発展している。さらに、他の民衆団体や職場単位でも防空訓練が行われ、そこでは滅私奉公や「頑張り」精神といった日本的倫理観が強調された。プムダ(青年)指導者の一人であったルスラン・アブドゥルガニ(Roeslan Abudulgani)が「日本軍政期には、大衆的規模で一般人民が軍事訓練を受ける機会が与えられた。・・・こうした軍事訓練は、われわれ青年の間に果敢な攻撃精神をうえつけることになった」と述べ、あるインドネシア人が「多くの青年がセイネンダン、ヘイホそしてケイボウダンなどにはいりましたが・・・日本に何か功績があるとすれば、彼らを軍隊式に鍛えたことだけです」と回想しているように、日本(軍)は、インドネシア青年たちの戦力化を図り、かつ彼らを対日協力の方向に導くために各種組織や団体を編成し、教育、訓練を行った。それらが青年たちに軍事技術を身につけさせ、攻撃精神を育むとともに、独立への意欲を掻き立てる契機を与えたものと思われる。日本軍政下における軍事組織等の創設(編成)や軍事訓練の実施がなければ、インドネシアはオランダとの独立戦争を勝ち抜けず、したがってインドネシアの独立もなかったかも知れない、ということもあながち過言ではなかろう。

 c 行政能力等の向上・・・

 d インドネシア語の普及等・・・」
http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200703/3.pdf

⇒もちろん、上掲の中にも、インドネシア占領軍政のたくさんな負の面の話も引き続いて出てくるが、以上のような正の面の話が、「日本軍が降伏した後、マライやインドネシアで・・・起きる可能性が高いと杉山らが想像していた」諸事の生起可能性を一層高めたであろうこと、そのことを杉山らも強く期待していたこと、は確かだろう。(太田)

(続く)