太田述正コラム#13192(2022.12.21)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その18)>(2023.3.18公開)

 「・・・第25軍は、華僑に対して厳しい武断政策を行う。
 占領直後の1942年2月に司令官山下奉文(ともゆき)は、シンガポールの華僑について、3日間で日本に敵対的な立場にあると判断した者は、ただちに処刑せよという命令を下し、憲兵隊を中心とした警備隊などが実行した。
 18歳から50歳までの華僑の男性を指定場所に集合させ、簡単な尋問を行っただけで、「抗日分子」とみなした者は、トラックに載せ郊外の海岸などで射殺した。
 抗日的でないと判断した者には「検証」の印を押したことから、この虐殺は「シンガポールの大検証」と呼ばれる。
 多くの人数を短期間で判別したため、「抗日分子」の捜索や判別は杜撰であり、もちろん司法手続きもなかった。
 犠牲者の数は定かではないが、警備司令官でこの作戦を指揮した川村参郎(さぶろう)少将の日記には、部隊長を集めた2月23日に「処分人員総計5000名」との報告が記されている。
 こうした虐殺を日本軍は「粛清」と呼び3月まで行った。
 現在、シンガポールでは4万~5万人が虐殺されたとしている・・・。<(注31)>」(93~94)

(注31)「1937年に日中戦争が始まって以来,シンガポールの華人は中国支援・反日運動を高揚させていたが,・・・日本軍・・・は反日運動に加わったと思われる華人男性を連行し虐殺。・・・日本軍の占領政策は華人を迫害し,マレー人を土着民として優遇,インド人は将来の独立インドの担い手としてやや優遇するという扱いを取り,民族間の対立感情を高め,戦後社会に悪影響を及ぼした。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E8%99%90%E6%AE%BA-843806

⇒「「華僑粛清」はシンガポール占領前から計画されていた<。>・・・朝枝繁春<(注32)は、>・・・「台湾研究部」では辻<政信(注33)>と一緒に勤務した仲である。一種豪傑風な性格を身につけており、その点で辻と似たところがある。それだけに、仮に起案者が朝枝だったとしても、辻の意向がはたらかなかったと見ることはできない。それほどにも辻と朝枝は一体の仲で、むしろ[作戦主任参謀の]辻が命じて起案させたと見る方が筋だろう。」
http://yu77799.g1.xrea.com/worldwar2/malayasingapore/Singapore1.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E6%94%BF%E4%BF%A1 ([]内)
というのが、現在の通説のようですが、現時点での私の見立てでは、辻には責任はなく、1次的実質的責任は起案者たる朝枝、2次的実質的責任、及び、法的責任、は山下奉文第25軍司令官、にあるように思います。

 (注32)1912~2000年。陸士45期(25位(335人中)。但し、操行が・・・赤点だ<った>)、陸大52期(3位)。「苦学のすえ福岡県立門司中学校を卒業<。>・・・1939年(昭和14年)12月、第1軍参謀部付となり日中戦争に出征。1940年(昭和15年)6月、第1軍参謀に移り、1941年(昭和16年)5月、台湾軍研究部員に転じ、同年8月から10月まで南方に出張。同年10月、陸軍少佐に進級、第25軍参謀として太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦を迎えた。マレー作戦、シンガポールの戦いに参戦し、辻政信参謀とともにシンガポール華僑粛清事件に関与した。
 1942年(昭和17年)7月、関東軍参謀に異動。1943年(昭和18年)12月から1944年(昭和19年)2月までソ連に出張。1944年3月、大本営参謀(作戦課)。その後、第14方面軍参謀を経て再び大本営参謀(作戦課で満州方面を担当)。1945年(昭和20年)6月、同期一選抜のひとりとして中佐に進級。同年8月、大本営参謀として満州へ出張中に敗戦を迎えた。この時、朝枝参謀は関東軍防疫給水部(通称・731部隊)の部隊長石井四郎軍医中将に研究資料の廃棄を指示している。・・・
 その後、朝枝はソ連軍に捕まり、1949年(昭和24年)8月に復員している。
 1954年(昭和29年)1月27日、駐日ソ連大使館のラストボロフ二等書記官が<米国>に政治亡命する「ラストボロフ事件」が発生。ラストボロフはソ連の日本における諜報活動の元締めであり、同年8月に<米国>はラストボロフの自白により、日本でのソ連の諜報活動の一端を発表した。このニュースが日本の新聞に掲載された際に、朝枝と志位正二が「自分はラストボロフに協力していた」として警視庁に自首している。戦後は木下産商(その後吸収され 現三井物産)で勤務した。
 ・・・「満州で日本人のやったことは強盗と同じことです。強盗の子を引きとって、残留孤児の養父母たちは、今日まで養ってくれたのです。残留孤児問題を中曽根康弘首相は全力をあげて解決しなければいけません」と語っ<たこともあ>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%9E%9D%E7%B9%81%E6%98%A5
 (注33)1902~1961年以降消息不明。幼年学校、陸士36期(首席)、陸大43期(3位)。「第25軍司令官・山下奉文中将はマレー作戦中の日記において、「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と辻を厳しく批判している。・・・
 マレー作戦終了後の1942年(昭和17年)3月に辻は参謀本部作戦課に呼び戻され作戦班長となった。・・・
 <終戦後、>辻はタイで逃亡するにあたって、都合の悪いことは全て自分の責任ということにしてよいと周りの者に語っていたとも言われている[要出典]。・・・
 1948年(昭和23年)に上海経由で日本に帰国し、戦犯で訴追されるのを避けて国内に潜伏する。・・・辻は帰国直後(1948年春)は佐賀県の小城炭鉱で鉱夫をしたり、全国の日蓮宗の寺を転々としていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E6%94%BF%E4%BF%A1

(続く)