太田述正コラム#13194(2022.12.22)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その19)>(2023.3.19公開)

 私が、辻にはシンガポール華僑虐殺事件の責任はないと考える理由は、辻が「<潜伏先から>帰国直後・・・全国の日蓮宗の寺を転々としていた」(「注33」)ことから、日蓮宗信徒であって日蓮主義者であったらしいことから、上司の合理的理由に基づく命令なしに一般住民の虐殺の企画・指示はしないと思われること、また、日蓮主義者だからこそ、「タイで逃亡するにあたって、都合の悪いことは全て自分の責任ということにしてよいと周りの者に語っていたとも言われている」(「注33」)のではないかということのほか、次の通りです。↓
 「自分の意見は、たとえそれが上司であっても大声で直言したと伝えられる。・・・
 上司への直言の例として、ガダルカナル島攻防戦を巡る駆逐艦の輸送問題(鼠輸送)で作戦が失敗したとき、辻は陸軍参謀本部で激怒、参謀総長杉山元陸軍大将は昭和天皇に海軍の輸送失敗(12月11日、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将指揮。旗艦照月沈没)を、陸軍側の視点から詳細に説明している。・・・

⇒杉山元でさえ、辻の言うことに全幅の信頼を寄せていたと見てよかろう。(太田)

 第18方面軍高級参謀としてバンコクにおいて終戦を迎えた辻は、8月14日に方面軍司令官の中村明人<(注34)>中将に「国家百年の為」 [7人の部下と共に]潜伏することを願い出て、これを許可された。

 (注34)あけと(1889~1966年)。幼年学校、陸士22期、陸大34期(恩賜)。「1938年(昭和13年)4月、軍務局長、ついで兵務局長を務める。1939年(昭和14年)10月、陸軍中将に進む。
 1940年(昭和15年)3月、南支那方面軍第5師団長に親補される、 北部仏印進駐の際、同年9月23日に独断越境を行い、フランス領インドシナ側の国境の要衝であるドンダンを攻撃、占領する事件を引き起こした。参謀本部付、留守第3師団長を経て、1941年(昭和16年)10月15日、憲兵司令官となり太平洋戦争を迎えた。
 1943年(昭和18年)1月、泰国(タイ)駐屯軍司令官に就任し、タイ国内の活動を全てとりしきることとなった。1944年(昭和19年)12月、泰国駐屯軍が改編され第39軍となり引き続き司令官を務める。1945年(昭和20年)7月、改編昇格した第18方面軍司令官となり終戦を迎えた。・・・
 陸大47期首席であった高山信武によれば、陸大47期生にとっては卒業時の先任教官として、名実共に父親のような存在として慕われており、タイ人や辻政信への<優しい>対応も中村の人柄ならではと絶賛している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%98%8E%E4%BA%BA (本文中の[]も)

 辻に対しては<英国>が戦犯容疑で追及を行うことが自明であったため、方面軍幕僚内でもこの決定に不満を持つものもいたが、中村司令官は辻を擁護し、<英国>の問い合わせに対しては「辻は敗戦の責任を感じ自殺するため離脱した。山中において一人命を断ったとみられる」と虚偽の説明をおこなった。

⇒中村明人のような人格者もまた、辻に絶大な好意を抱いていたことに間違いない。(太田)

 辻は数名の青年将校とともに青木憲信と名乗って日本人僧侶に変装しタイ国内に潜伏した。元軍人が僧侶に変装しているとの情報を得た<英国>が捜索を強化すると、辻はバンコクにおける中華民国代表部に赴いて日中平和の為働きたいと大見得を切り、この助けにより1945年11月に仏印ヴェンチャン、ユエ経由でハノイに渡り、さらにここから飛行機で重慶へと向かった。・・・
 中国では連合国であった国民党政権に匿われ、しかも国民党政権の国防部勤務という肩書きを与えられた。これは蔣介石の特務機関である軍統(軍事委員会調査統計局)のボス、戴笠の家族を過去に助けた経緯から、国民党政権が辻へかなりの親近感をもっていたためだといわれる。また蔣介石自身も、蔣の母が病死した際の慰霊祭を辻が以前におこなったことから辻に非常な好意をもっていた。

⇒決定的なのはここだ。
 辻が華僑虐殺に直接関与していたとすれば、こんな致命的なまでに危ない橋を渡るはずがない。
 それどころか、辻は、いざという時に、自分が関与していないことを証言してくれる華僑等の有力者を何人も確保していた、と思われる。(太田)

 やがて始まった<支那>の国共内戦が国民党に不利になりはじめたことから<支那>にとどまることにも危機を感じ、1948年(昭和23年)に上海経由で日本に帰国し<た。>・・・

⇒辻は、対米英戦中、杉山参謀総長の下で作戦班長を務めており(「注33」)、この折に杉山構想に気付いたか、潜伏後帰国してから誰かから聞き出すなり誰かとの接触の中で気付いたかした可能性が排除できないが、いずれにせよ、戦後日本の動向に大変な危機意識を抱き、駐留米軍全面撤退論を唱えるに至ったと見る。(太田)

 <米>駐在軍全面撤退論を唱えはじめ、やがてGHQやCIAなどの情報機関から疎まれるようになってゆく。<米国>は公職追放令違反で辻を追及しようとしたが、占領が終わろうとしていた時期だったためか具体的な対応は取られなかった。・・・一方で、政治家となった辻のもとに、軍人時代の責任を問う声がいくつも寄せられ、アジア各国で起きた残虐な事件(シンガポール華僑粛清事件・バターン死の行進など)は辻が計画したとして、軍の元上官から告発された。

⇒バターン死の行進問題までには立ち入らない。(太田)

 1959年(昭和34年)、岸信介攻撃で自民党を除名されて衆議院議員を辞職したが、同年におこなわれた参議院議員選挙に全国区で立候補し、第3位で当選した。・・・

⇒辻は、この早い時点で、岸信介の魂胆、ひいては岸カルトの危険性、に気付いていたとしか思えない。(太田)

 <その後、>失踪<するも、>・・・辻は1962年8月8日時点で存命で・・・、ハノイからヴィエンチャンに戻った後に中国共産党に拉致され中国雲南省に抑留されてい<て>、中国共産党が辻を改造して「東南亜戦略委員会設計部長」に任命する計画を立てており、辻に何らかの宣言をさせて日米関係や日本の東南アジアにおける地位に打撃を与えることを画策してい<て>、中国共産党右派が辻を釈放して、日本政府から支援を得ようとしてい<た、という情報がCIA文書に記されている。>・・・

⇒中共は、辻が杉山らと中国共産党の関係まで知っていることに危惧し、辻を拉致し、殺害した可能性がある。(太田)

 長女の英子は、辻と同じく陸軍士官学校出身であった衆議院議員堀内一雄の子息堀内光雄<(注35)>(富士急行株式会社のオーナー。後に衆議院議員)と結婚し、その間の子(辻の孫)が堀内光一郎(富士急行株式会社の代表取締役社長。衆議院議員堀内詔子の夫)である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E6%94%BF%E4%BF%A1 前掲

 (注35)慶大(経卒)。衆議院議員(10期)、富士急行株式会社会長、労働大臣(第51代)、通商産業大臣(第62代)、自由民主党総務会長(第43代)を歴任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%86%85%E5%85%89%E9%9B%84

⇒堀内光雄は、自民党で宏池会であり(上掲)、辻の政治姿勢を受け継いでいるわけではなく、その父親の堀内一雄に至っては、陸士27期、陸大37期かつ戦前、戦後において衆院議員を務め「1955年の総選挙で日本民主党から立候補して当選。第1次岸改造内閣で建設政務次官に就任」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%86%85%E4%B8%80%E9%9B%84
していることからむしろ岸ベッタリの政治家(かつ富士急社長)だったけれど、「鎌倉期の1282年(弘安5年)、病を得て湯治に向かうため身延山を下りた日蓮が堀内家に立ち寄った」(上掲)らしいことから、堀内家代々も日蓮宗信徒ではなかったか。
 ということは、辻が潜伏先から帰国した直後、堀内家の縁で、全国の日蓮宗の寺々を転々としただけだった可能性も排除できない、ということを一応申し上げておきます。

(続く)