太田述正コラム#1794(2007.6.5)
<名誉革命(その1)>(2007.12.3公開)
1 始めに
 イギリス内戦(清教徒革命)をとりあげたからには、それに引き続く1688年の名誉革命(Glorious Revolution)をとりあげずばなりますまい。
 そもそも、以下をお読みになると分かるように、広義のイギリス内戦は、英国的、更には欧州的ないし世界的広がりをもって1746年、あるいは1776年まで続いた、と見ることもあながち不可能ではない以上、イギリス内戦にこのような欧州的・世界的広がりを帯びさせる契機となった名誉革命を論じないわけにはいかない、という面もあるのです。
 それに、たまたま昨年、名誉革命に関し、英国で以下のように、
Patrick Dillon, The Last Revolution: 1688 and the Creation of the Modern World, Jonathan Cape
Tim Harris, Revolution: The Great Crisis of the British Monarchy, 1685-1720, Allen Lane
Edward Vallance, The Glorious Revolution: 1688 – Britain’s Fight for Liberty, Little Brown
三つも新著が出たこともあり、最新の学問的成果を踏まえて議論ができるだけに時宜に即している、とも考えました(注1)。
 (以下、
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,1717069,00.html
(2月27日アクセス)、及び
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2006/02/26/bohar19.xml
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/history/article728193.ece
http://www.historydirect.co.uk/1/19/4/GB0316726818
http://asifitreallymatters.blogspot.com/2006/11/glorious-revolution.html
http://www.socialaffairsunit.org.uk/blog/archives/001069.php
http://www.ufr-anglais.univ-paris7.fr/CENTRES_RECHERCHES/CIRNA/CIRNA1/RESSOURCES/AUTRES_PAGES/COLLOQ/contrib/Sarson/Steve-Sarson.php
http://en.wikipedia.org/wiki/Glorious_Revolution
(いずれも6月1日アクセス)による。)
 (注1)この際強調しておくが、私は趣味で、あるいは蘊蓄を傾けるために歴史をとり上げているわけではない。歴史をとり上げる目的はあくまでも、私の考えるところの「正しい」(=腑に落ちる)歴史認識をご披露することによって、読者諸氏において、この歴史認識を踏まえて、現在の国内外情勢をより的確に理解していただいた上で、日本の国の在り方、ひいては世界の在り方を考えていただくためなのだ。
2 名誉革命とは何だったのか
 (1)名誉革命の骨子
 1685年にジェームス2世(1633~1701年)が死去した兄のチャールス2世(1630~85年。臨終の床でカトリックに改宗)の後を襲って英国の王位に就いた時、英国教徒と清教徒等の狭義のプロテスタントを合わせた広義のプロテスタントのイギリスの人口に占める比率は98%もあり、カトリック教徒は2%に過ぎませんでした。
 そのイギリスで、敬虔なカトリック教徒のジェームスが王位に就いたのですから、それだけでもジェームスの前途は多難でした。
 ジェームスはきっと議会を軽んじ、法の支配をないがしろにし、常備軍で専制政治を行い、プロテスタントを迫害し、更には生命・自由・財産を侵害するに違いないと思われたのです。というのも、大方のイギリス人にとって、カトリックのイメージはまさにこのようなものだったからです。
 そのジェームスが、カトリック教徒が公職に就いたり大学に入学したり軍に勤務したりすることを禁じたTest Actsを廃止しようとし、それを拒否したイギリス議会とスコットランド議会を解散し、勅令による統治に切り替え、個々のカトリック教徒に上記公職就職等を解禁し、カトリックの学校や礼拝堂を建設する、といったことをやらかしたのですから、イギリスの人々は、ジェームスが自分達を全員を再びカトリックに改宗させようとしているのではないか、とあらぬ想像をかき立てられて恐惶を来したのです。
 この様子を、オランダ共和国の主要な諸州の総督(Stadtholder)であり、ジェームスの娘のメアリー(Mary。1664~94年)の夫であり、自らもジェームスの甥(ジェームスの父親のチャールス1世の孫)であり、かつプロテスタントであるオレンジ公ウィリアム(William of Orange。1650~1702年)は、イギリスを自分の手で対(ルイ14世の)フランス・カトリック絶対主義への戦いに引き入れるチャンスが来るかも知れない、という思いで見守っていました。
 決定的瞬間は、1688年6月にジェームスに男児が産まれた時に訪れました。
 男児に恵まれなかったジェームスが死ねば、ジェームスの娘でプロテスタントであるメアリーが後を継ぐと思っていたのに、永久にイギリス王位がカトリック教徒に占められる懼れが出てきたからです。
 かねてから時が来たら、来援要請状を送ってくれと言われていたイギリスの貴族達が、ただちにウィリアムに、来援要請状を送ると、満を持していたウィリアム(イギリス王位継承順位は妻メアリーのすぐ次)は、11月に15,000~18,000人の歩兵と3,000人の騎兵をイギリスに上陸させます。
 ジェームスは兵力的にはウィリアムを上回っていたのですが、腹心やもう一人の娘のアン(Anne。1665~1714年。後に王位に就く)がウィリアム側に与したこともあり、戦わずしてフランスに逃亡します。
 ウィリアムのイギリス侵攻は、成功裏に終わった対イギリス侵攻としては最後のもの、という見方もできます。
 そして、翌1689年2月にウィリアムとメアリーは、共同君主としてイギリス王位に就くのです。
 (2)名誉革命に関するこれまでの説
 一番有名なのは、ホイッグ史観であり、マコーレー(Thomas Babington Macaulay)が1850年前後に出版したイギリス史の中での名誉革命の記述であり、ジェームスの失脚とウィリアム/メアリーによる置き換えにより、近代的な自由と進歩の条件が創り出され、国家による専制と教会による迫害が、立憲君主制・市民的宗教的自由・法の支配によって取って代わられた、と主張しました。
 これに対し、マルクス主義史観では、君主がすげかわっただけで、実質何も変わらなかったとされたのです。
 戦後の修正主義史観では、ジェームスは、プロテスタントに迫害されていたカトリック教徒にも信教の自由を認めようとしただけだとか、ジェームスの失脚は、「フランス人」ウィリアム1世による1066年のノルマンコンケスト類似の、「オランダ人」ウィリアム3世によるイギリス征服によってもたらされただけのことだ、しかも、ウィリアムの目的は、ルイ14世との戦いにイギリスを引きずり込むためのものだった、それに君主の権限に制約が課されたのは、この戦争のための戦費を議会に認めさせるための取引として、ウィリアムが飲んだからにすぎない、といった主張がなされました。
 上掲の3新著は、いずれも、おおむね修正主義史観に立脚しつつもマコーレーのホイッグ史観を彷彿とさせる趣きがあります。
(続く)