太田述正コラム#13210(2022.12.30)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その27)>(2023.3.27公開)

⇒秦彦三郎は、ロシア通ですが、若い時からの支那通でもあり、参謀次長の前職は「太平洋戦争開戦後も第11軍隷下華中に在り占領地の警備や治安作戦に従事していた」第34師団
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC34%E5%B8%AB%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
長であって、当時の汪兆銘政権が華夷秩序観を拭い切れておらず、その秩序の頂点に支那だけでなく日本も共に立つことまではいやいや認めても、ビルマやフィリピン、更にはタイ、などと支那が同列視されることまでには彼らが耐えられないことを知っていたのでしょうね。
 この関連で、蒋介石政権も同じような華夷秩序観だったのか、はたまた、それぞれの政権のロシア観はどうだったのか、も気になります。(太田)

「1943年6月16日に開催された・・・衆議院本会議で、東条首相は大東亜政略指導大綱の内容を踏まえた施政方針演説を行った。
 フィリピン独立の時期を年内と明らかにする一方、「帝国領土」とした諸地域については言及せず、それぞれの民度に応じて、年内に政治参与ができる措置をとると述べた。
 なかでもジャワについてはできるかぎり速やかに実現すると特別な配慮を示した。
 東条の演説は、当時の新聞などで「大東亜宣言」と呼ばれた。
 日本の大東亜新政策は連合国や中立国への宣伝の役割も持っていたため、ジャワでの政治参与を例に、帝国領土に決めた地域も、原住民の念願によって独立につながっていくように表現された。
 重光は予算委員会での大東亜宣言の説明で、各国に完全な独立や広範な政治参与を付与し、平等互恵のうえに善隣の協力関係を樹立する趣旨と話し、「平等」「互恵」ということばを用いて重光の理念を示そうとした。
 外務省は、この宣言の宣伝を図るために同盟通信社を通して各国に配信し、その効果を見極めるために各国の在外公館からその地域での反響を収集している。
 中立国のスウェーデンや同盟国のルーマニアは日本の望んだ反応だったが、連合国のメディアには当然のことだが批判のコメントが掲載されていた。
 アメリカでは、ハル国務長官が日本の意図は「奴隷化」であると発言したと報道されていた。
 他方で、大東亜宣言は、帝国日本の支配領域内では衝撃をもって迎えられた。
 在満州国大使館から、在満朝鮮人の「南方未開の原住民に独立を与える以上当然我らにも同様の栄誉を与えよ」といった怨嗟の反響が届けられた・・・。
 南方地域の独立が朝鮮に影響を及ぼすことは、政府・軍内でも想定はしていた。
 1943年1月の大本営政府連絡会議では、ビルマ独立にあたって、日本の勢力下にある他の民族の独立運動を刺激することを考慮すべきであるとの説明があった。
 そのうえで、朝鮮には「内鮮一如皇民化の原則」で臨んでいて、朝鮮は皇民化によって同化を強めることで、大日本帝国内には「植民地」や「民族」の問題が存在しないとの立場を徹底する方針だった。
 戦時下の朝鮮・台湾の同化主義の徹底は、大東亜共栄圏の階層秩序の形成と関連していた。

⇒ここ、意味不明です。(太田)

 日本の支配下にあった中国の北京や南京では、日本の善意に感謝して大東亜戦争完遂に邁進するという社説や、汪兆銘の名で日本の友誼に感謝し両国共栄の実現と大東亜戦争完遂に邁進するとの談話が発表され、感謝や期待の記事が報告されていた。・・・
 東条首相は、1943年6月30日から7月12日まで、東南アジア各地を歴訪した。
 7月3日にタイ、5日にシンガポール、7日にスマトラ、ジャワ、10日にフィリピンを訪問した。<(注44)>」(139~141、143)

 (注44)「・・・東條英機は、あるときは軍服姿で猛々しく演説をする凛々しい軍人であり、またあるときは・・・陸軍時代の成功体験を生かし、・・・浴衣姿で子供と仲良く朝の散歩をする好々爺と言った具合に、メディア上では厳父と慈父の二つの顔を併せ持つ見事なメディアパフォーマンスを仕かけた。・・・
 東條が、<戦況悪化に伴う>国内での・・・人気低下を食い止めるべく、新たに活路を見出したのが東南アジア歴訪であり、国内に向けて日本が東南アジアを掌握しており、自らにその力があることをしきりにアピールした。実際、東條は、昭和18年3月以降、南京や満州国への訪問を皮切りに、日本軍の占領地である東南アジアにも足を運んでいる。特に、昭和18年5月にフィリピンを訪問した際には、現地での熱烈歓迎ぶりが大々的に報じられた。」
http://tamaiseminar.main.jp/wp-content/uploads/2018/04/%E6%88%A6%E6%99%82%E5%AE%B0%E7%9B%B8%E3%83%BB%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%8B%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%86%E3%82%99%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%8F%E3%82%9A%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%89%8B%E6%B3%95.pdf

⇒このような東條のメディアパーフォーマンスを東條自身の発意もあったのでしょうが、陰で演出したのが誰だったのかを知りたいところです。
 それにしても、東條、1943年にフィリピンを2度も訪問したのですね。(太田)

(続く)