太田述正コラム#2167(2007.11.8)
<文藝春秋の裏切り>(2007.12.10訂正した上公開)
 (本篇は当分の間公開しません。引用・転載を厳禁します。)
1 始めに
 拙著『防衛庁再生宣言』が大変な入手難になっているようです。
 「たかじん・・」を見てネットでこの本を購入しようとした人が、取り寄せに3~5週間かかると聞いて、私にメールを寄越し、手持ちのこの本を直接譲ってもらえないかと言ってきたのですが、手間を考えてお断りしました。(私のホームページに直販すると書いてあるのですが、選挙前につくったホームページがそのままになっている次第であり、助手もいない私が1人で本屋稼業までとてもやっておれないのであしからず。)
 本日私を取材した記者の一人は、古本屋を相当回ったが入手できなかったので、国会図書館に行って主要部分をコピーしてきたと言って見せてくれました。そこで、自宅までお連れし、自宅にあったこの本を一冊サインして贈呈しました。
2 文藝春秋の裏切り
 さて、拙著を読まれた方で鋭敏な方は気付かれたかもしれません。
 序文から第一章の32頁までの文体が、この本の残りの部分と微妙に違っていることに・・。
 それもそのはずです。
 この部分は、月刊誌の文藝春秋(文春)の編集部が執筆したのです。
 実はこういうことなのです。
 私が2001年7月の参議院議員選挙に民主党から比例区で出馬することを最終的に決断したのは、民主党の執行部(具体的には当時の熊谷幹事長代理と私との連絡役を務めた浅尾慶一郎参議院議員(スタンフォード・ビジネススクールの後輩))が、文春に私の考え方を伝えたところ、文春が私が執筆した防衛庁批判の論考を掲載することを確約したと私に2000年1月末に伝えてきたからです。
 私は自分が当選するとは全く思っていなかったけれど、文春に載るのなら、私の名前が全国的に知られることになるので、恥ずかしくない票がとれるだろうし、落ちても、何とか評論家として食っていけるだろうと思ったのです。
 こうして出馬を決断した私は、文春用の原稿を書き上げ、文春編集部に送りました。
 すると3月になって、編集局次長の鈴木洋二氏より、私にインタビューした上で、私の原稿とインタビューをもとに、編集部で改めて原稿をつくりたいという連絡が入りました。
 私が承諾すると、3月17日、東京赤坂見附のホテル・ニューオータニで私のインタビューが行われました。
 普通の客室で1人の記者によってインタビューが行われると思いこんでいた私は、案内されたのが豪華なスイートルームで、鈴木氏と中村毅氏、それにカメラマンが待ち構えており、写真も撮られてぶったまげました。
 お化け月刊総合雑誌の文春さんのやることはすげえや、というのが率直な感想でした。
 やがてゲラができてきました。
 ちょうどその時、防衛庁に確認したところ、私が提出した原稿・・ゲラでもその部分は活かされていた・・に一部誤りがあることが分かったので、ゲラに手を入れながら、そのことを文春の編集部に電話で伝えました。
 その時、何だか相手の態度がつっけんどんでおかしいと思ったのです。
 そうしたら、その翌日、私の論考(ならぬ文春編集部執筆の論考)が、編集長の鶴の一声で掲載中止になったという連絡が浅尾議員を通じて私にもたらされたのです。
 私は茫然自失状態になりつつも、人がいいと言うか、さすが文春の見識は大したものだと感じ入ったのです。
 というのは、拙著のその部分をお読みになればお分かりのように、そこには何ら大スキャンダルめいたことは出てきません。
 私自身、この程度の話でよくあれだけの分量を掲載してくれるものだと内心思っていたからです。
 その後、週刊文春でならちょっと取り上げてやってもよいという文春の申し出を拒絶した上で、この文春編集部執筆原稿を圧縮したものを高校時代の同級生の阿部君(現在『FACTA』編集長)が編集長を務めていた直販月刊誌『選択』に載せてもらったり、文春編集部執筆原稿をそのまま冒頭部分に活かすとともにそれまでに私が書きためてあった文章類をかき集めて拙著『防衛庁再生宣言』に仕立てたりしているうちに、選挙の事前運動が始まるといった具合に、私には文春とのことを振り返っている暇もない忙しい日々が続きました。
 こうして、あっという間に7月の選挙の公示日がやってきて、私は選挙カーで九州から東北の宮城県までを遊説して回りました。
 選挙が終わってやっとヒマになり、文春とのことをもう一度反芻してみた私は、文春が行ったことは大変な裏切り行為であったと思い至ったのです
 なぜか。
 そもそも、私の論考を掲載することは、文春と最大野党である公党との約束であり、当然、編集長が承知していたはずであるのに、ゲラまでできてから掲載中止を言ってきたということは、民主党と断絶することを覚悟の上でのことであったはずだということです。 
 そんな大変な決断を編集長がせざるをえなかったということは、ゲラを見た誰か、恐らくは自民党筋あたりから強硬なクレームがついた、といったことぐらいしか考えられません。
 ひょっとしたら暴力団あたりが、自民党の意向を受けて編集長を脅した、といったことがあったのかもしれませんね。
 文春も、その文春の裏切りに強硬な抗議ができなかった民主党もだらしないこと夥しいものがある、とだんだん怒りがこみ上げてきたものです。
 (民主党の私に対する背信行為とは、このことではありません。この民主党による背信行為については、まだコラムに書くには時期尚早だと思います。)
3 終わりに
 この文春の裏切りによって、防衛庁の退廃・腐敗を訴えて防衛庁を飛び出した私の声は皆さんに届かず、爾後いたずらに6年半の年月が経過し、ようやく同期の守屋の不祥事のおかげで、この私の声が皆さんに届きだした、ということになります。
 いささか大げさに申し上げれば、文春は日本国民に対して責任をどうとるつもりなのでしょうね。
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<太田>
 その後、拙著が在庫切れになっていることが分かったので、指定口座に1000円振り込んでいただければ、宅急便代着払いで私の手持ち在庫をお送りすることにしました。