太田述正コラム#2184(2007.11.18)
<大蔵官僚群像(その2)>(2007.12.14公開)
 (本篇は、当分の間公開しません。)
 (2)GNP1%枠突破をめぐる攻防
 いわゆる防衛費をGNPの1%の枠内にとどめるとの1976年の閣議決定以降、初めて防衛費(当初予算)がGNP1%を突破したのが1987年度防衛費です。(翌1988年度防衛費も1%を突破しましたが、爾来、二度と1%を突破することなく現在に至っています。)
 残念ながら、このことの顛末をきちんと描いた論文も本もまだ出ていませんし、私自身それを行うつもりもありません。
 ただ一つ言えることは、一部に流布しているところの、椎名素夫議員にその「功績」を帰する説・・その出所は
http://www.csis.org/media/csis/pubs/070323_jcp.pdf
・・は恐らく間違いであろうということです。
 1980年にレーガン政権が発足すると、カーター政権末期以来の米ソ第二次冷戦を背景とした米国による対日防衛努力強化要請が一層強まり、日本政府としては、主要装備の整備計画を前倒しすることによって米国の期待に応えるポーズをしつつも、大蔵省はGNP1%枠内に防衛費をとどめることにこだわり続けていたのです。
 このような状況の下、経理局長に就任した防衛官僚の池田(久克)さんは、防衛課長時代に部下であった私を指名して予算決算班長に就け、二人でGNP1%枠突破作戦を展開しました。
 このように、当時はようやく経理局長と予算決算班長にこそ防衛官僚が就くようになっていたけれど、会計課長と予算決算斑の海上自衛隊担当と航空自衛隊担当には依然大蔵官僚が就いていました。
 ですから、言うなれば、「敵」を多数身内に抱えながら、われわれは上記作戦を展開したわけであり、本件での局長の補佐は、(コピーとり等の単純作業を除き、)資料作り等、すべて私一人で極秘裏にやらざるをえませんでした。
 この作戦と予算決算班長としての通常業務とを両立させることは並大抵なことではありませんでした。私が最もよく働いたのはこの時期だったと言えるでしょう。
 当時の大蔵省の防衛担当主計官は西村さん(後に銀行局長)、次いで岡田さん(後に環境事務次官)であり、防衛係の総括主査は黒田さん、次いで佐藤君(年次は私より2年下。現在の金融庁長官)でした。
 最初の3人はいい人であり、西村さんに至っては、私と陸海空の予算班長の計4名を自宅に呼んで「接待」してくれたほどです。大蔵省から接待を受けたのは後にも先にもこの時だけです。
 黒田さんとはウマがあい、私の官舎に彼がやってきて話し込んだこともありました。その後若くして黒田さんが亡くなったのは残念なことでした。
 岡田さんは以前防衛庁の予算決算斑に勤務したことがあり、結構私とはウマがあいました。
 難物は佐藤君でした。
 東大が入試を中止した年に京都大学に入っており、公務員試験を抜群の成績で大蔵省に入省したと思われる、大変な秀才でした。
 しかし彼は、秀才風のふかせ方が尋常ではない、まことに困った人物でした。
 黒田さんが総括主査の時、ヒラ主査で防衛係に佐藤君はいたのですが、黒田さんも心配していたのでしょう。ある時、私に佐藤をよく教育してやってくれ、と頼んだことがあります。
 しかし、彼は到底私の手に負えるような人物ではありませんでした。
 佐藤君が総括主査になってから、ある重要な想定問答の摺り合わせを彼と行ったことがあります。
 その時、私が持ち込んだ回答原案が気に入らなかった佐藤君は、私にボールペンを渡し、自分が口述する想定問答の回答を書き取れというのです。
 回答の中身はともかく、長い口述内容が、全く手を入れる余地のない完璧な文章になっていることに私は驚きながら筆記をしたものですが、2年も年次の上の他省庁の人間を書記代わりに使う非常識さに佐藤君は全く気付いていないようでした。
 (経理局長答弁はこの想定問答のラインで行えと彼に言われて持ち帰ったこの想定問答を、池田経理局長は一瞥をくれようともしませんでした。)
 しかし、私にとってはそんなことはどうでもよいことでした、私の本務は上記1%突破作戦にあると割り切っていたからです。
 私は、防衛をめぐる戦後のタブーの一つを粉砕することに大きな意義を感じていましたが、池田さんも同じ考えでした。
 そのために行ったのは、自民党の防衛族議員達に対する徹底したお涙頂戴攻勢でした。
 第2次冷戦下で主要装備に偏重した防衛予算編成を繰り返してきた結果、防衛費は非常に後方経費が圧縮されたアンバランスな構成となっていたのですが、われわれ二人は、自衛隊員の隊舎や官舎がいかに狭くてボロか、といったことをプレイアップすることとし、全国で最もひどい隊舎や官舎ばかりを探して写真に撮り、その写真集を片手に連日、防衛族議員の間を説明して回ったものです。
 この間、池田さんから託された書簡を添えた1%突破の必要性を訴えた資料を、ひそかに(首相官邸では目立つので)首相公邸で当時の中曽根首相の政務担当秘書官に私が渡したり、といったこともありました。
 ちなみに池田さんは、中曽根さんが防衛庁長官の時の長官秘書官です。
 その時点までのアンバランスな防衛費は、防衛庁もそれでよしとしてきたにもかかわらず、にわかに掌を返し、デマゴギーを用いて1%枠突破を図るなんてけしからん、と佐藤君は会うごとに私をなじります。
 しかし、佐藤君を中心に、大蔵省も執拗に逆攻勢をかけたものの、次第にわれわれ二人の側の言い分を支持する空気が防衛族議員達の間で醸成され、ついにGNP1%枠を超える防衛予算が決定されるに至ります。
 そこで急遽、この増加した予算枠を具体的経費で埋める作業が必要となり、防衛庁の予算決算斑が総出で大蔵省の防衛係に赴き、苦虫をかみつぶしたような顔をした佐藤君の指揮の下で、われわれがこの作業を行うという、空前絶後の事態になったことがつい昨日のように思い出されます。
 この佐藤君の非常識さに困った経験がもう一度あります。
 佐藤君が防衛担当主計官で私が防衛大学校の総務部長の時です。
 予算編成が終わり、松本防衛大学校長の御礼言上に随行して佐藤主計官のところを尋ね、校長がビール券を彼に渡そうとしたところ、佐藤君がそれを突き返したのです。
 私自身まことにばかばかしいと思いつつも、当時の慣例に従い、防大校長にビール券を持たせたのですが、突き返すのなら、事前にその旨教えて欲しかったし、突き返すのなら部下の主査達にもそうするように指導すべきところ、部下達は慣例通り私からビール券を受け取ったのですから何をかいわんやです。
 自分一人が正義感にひたって他省庁のわれわれに恥をかかせて平気な神経が私には分かりませんでした。
 (後で防大校長から、私が軽く叱られてしまいました。)
 そんな佐藤君が金融庁のナンバー2を勤めた後、現在では金融庁長官をしているわけですが、さぞかし彼に金融業界の人々は翻弄されていることであろうよと同情を禁じ得ません。
 このところ東証がニューヨークやロンドン等の証券取引所と比較して急速に地盤低下した(典拠省略)責任の一端は、非常識な大秀才の佐藤君にもあるのではないか、という気がしてなりません。
 あてずっぽうですが・・。
(続く)