太田述正コラム#13241(2023.1.14)
<増田知子等『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む(その8)>(2023.4.11公開)


[渡洋二郎君からのゆうパック]

 表記の中に、渡君の私宛の手紙のほか、いくつもの小冊子や資料が入ったもの、が本日届いた。
 この場を借りて、渡君に御礼を申し上げる。
 小冊子群のうち、「天皇実録の世界が見た渡正元」については、改めて取り上げる機会もあろうかと思う。
 ここでは、彼からの手紙の一部を紹介しておこう。
 「増田和子先生は、青山学院大学を卒業されていますが、青山学院大学には、貴族院研究の第一人者の小林和幸<(注15)>先生がいられ、そのお弟子さんであるということです。私も、近現代史の学問の世界はよくわかりませんが、何といっても第一人者は、東京大学名誉教授・政策研究大学院大学名誉教授伊藤隆先生で、お弟子さんが多いです。・・・<でも、当然、>増田知子先生は、<この>伊藤先生の・・・お弟子さん<筋>ではありません。」

 (注15)1961年~。青学卒、同大博士、同大助手、宮内庁書陵部主任研究官、駒大助教授を経て、青学文教授。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%92%8C%E5%B9%B8

 「・・・渋沢も福沢も<、>繰り返し、女性が学問により<、>出しゃばり、生意気になるなどの弊害があることを認めており、その矯正の必要が述べられている。
 つまり、女性の学問は、男性と対等の、人としての自立、自活のためなどではなかった。
 幼稚な若い女性たちを賢婦人に近づけるための修養の手段に過ぎなかった。
 女性が人として独立してしまうと、夫婦はばらばらになり、家庭の和が乱れるという、家族制を維持することを目的とした民法の発想と同じであった。・・・
 女性が経済学を学んでよいのは、家計、家政のためであった。
 法律学については、弁護士法の規定により、弁護士は男性のみが就ける職業であり、女性はいかに法律学を勉強しようとも、弁護士にはなれなかった。
 職業上の性差別という法制度の下で、女性が経済学、法律学を大学校、専門科で学ぶ目的は、所詮、「賢婦人」の「自衛の嗜み」、「文明女子の懐剣」でしかなかった。
 渋沢と福沢の女性の学問限定論は、天皇制家族国家観と近代法制度とが連動して、女性の手かせ、足かせとなっていた現実から一歩も出ていなかったと考えられる。」(208、210)

⇒福澤と澁澤の明治期における影響力の強さは周知のこととはいえ、彼らの声も当然斟酌されたと考えられるところの、民法典論争中の家族法部分の論争と決着の話等を材料として用いて、明治期の選良層一般の家族観や女性観を増田らに紹介して欲しかったところです。
 彼女らに代わって私自身がそれを行う能力も時間もないので、福澤と澁澤の女性観にひっかけた、私の印象論の域を超えない取敢えずの見解を申し上げれば、前述したように、この両者の女性観は、(福澤が儒教を忌避した以上は)儒教の影響を受けたというよりは、江戸時代の武士の家族観、女性観と、それとたまたま似通っていたところの、欧米の当時の家族観、女性観、の影響を受けた、と思われるのです。
 欧米の当時の女性観は、「それまでは主に生産は「家」で行われていましたが、この機能が<産業革命等に伴い、>工場や会社に移り<、>「家」における男女協働が、男性が職場に行き、女性が家に残るという性別役割分業に移行したのです。つまり、国家による「一人前の国民は男性だけだ」という考え方と、・・・「仕事をする男性のほうが重要だ」という考え方が合わさって、男性の社会的活動のほうが(女性の家庭における活動よりも)重要だと考えるようになったのです。・・・これをフェミニズムでは「『公的領域』と『私的領域』の分離」と言います。<すなわち、>男性が担う公的領域のほうが重要で、女性が担う私的領域はあまり重要ではないという位置付け<となり、まず>英国で・・・ビクトリア時代に性別役割分業が確立され、「女性は家の中の天使であるべきだ」といった家庭での役割を強調するイデオロギーが生まれました。<それは、>女性は愛情豊かであらねばならない、女性らしくあらねばならない、主婦の仕事は大事である、処女であることが大切だ――。」というものでした。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00317/082000019/?P=3
 これに加えて、18世紀から欧州文明地域を嚆矢として導入され始めた徴兵制において、兵士として徴兵されるのは、(地理的意味での欧州の騎士や日本の武士がそうであったのと同様、)当然男性だけであったわけです。
 つまり、増田らが紹介する明治維新前後の欧米における家族観、女性観は、江戸時代の武士の家族観、女性観と極めて近しいものであったところ、福澤と澁澤は、二人に共通する武士の家族観、女性観を、同時代の欧米での見聞を通じて上書き、強化し、世間に向けて発信しただけのことであると考えられるのであって、それを、別段、天皇制家族国家観云々といったおどろおどろしい代物と結び付けて説明する必要などないのではないでしょうか。
 なお、これは、福澤と澁澤の家族観、女性観の射程外の話ですが、明治維新以降の日本における家族観、女性観の、江戸時代の武家とも当時の欧米諸国とも違う点が一つあって、それは、江戸時代以降の日本の武士以外の「「家」の中で夫婦は協働していたという歴史があり、その名残があった<ことから、>・・・<明治維新以降、数の上では圧倒的に多かった平民の家のあり方によって「洗脳」されてしまうこととなったところの、旧武士の家も含め、世界中でも稀なことに、ほぼ全ての家で、>専業主婦<が>財布のヒモを握<るに至っ>た」(上掲)ことです。(太田)

(続く)