太田述正コラム#13245(2023.1.16)
<増田知子等『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む(その10)>(2023.4.13公開)

 「・・・小汀利得<(注19)>が指摘したように、金融恐慌<(注20)(コラム#13184)>は、創業から二代目、中には創業者の代で没落する富豪たちを続出させた。

 (注19)おばまとしえ(1889~1972年)。「早稲田大学・・・政治経済学科(現・政治経済学部)を卒業した。・・・
 1921年、・・・中外商業新報社(日本経済新聞の前身)に経済部記者として入社した・・・。・・・1927年には同紙の経済部長に就任、1930年の濱口雄幸内閣・井上準之助蔵相による金輸出解禁(金本位制への復帰)においては、経済理論上、戦前の為替水準(旧平価)での金解禁は不況を招くであろうこと、望まれる政策は金解禁の中止、あるいは為替の大幅切下げとのセットでの実施(新平価解禁)であることを説く論陣を張った。同様の主張を行った石橋湛山(東洋経済新報)、高橋亀吉(経済評論家)、山崎靖純(時事新報、後に読売新聞)と共に、小汀は「新平価解禁四人組」として勇名を馳せた。
 小汀は1934年からは中外商業新報の編集局長、1945年1月には同社副社長、敗戦直前の同年7月には改称し日本産業経済新聞社と称していた同社社長に就任した。また1943年からは大日本言論報国会参与でもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B1%80%E5%88%A9%E5%BE%97
 (注20)日本で1927年(昭和2年)3月から発生した昭和金融恐慌。「・・・遠因<:>金融システムの整備が完全ではなかったことから発生した不良債権の処理が適切になされず、金融不安を起こすに至った。大正期からこれらシステムの不備は認識されていたが、充分な手当てがなされる前に恐慌が発生した。・・・
 近因<:>大正期に入ってから続く不況に喘ぐ日本は第一次世界大戦が始まると一転して船舶需要をはじめとする戦争特需に湧き、念願だった八八艦隊の整備にも乗り出して造船業界は活況を呈した。だが1920年になると戦後不況が襲い、活況を呈していた造船業界も軍縮の煽りをうけて受注を減らし日本経済全般が苦境に陥った。1923年に関東大震災が発生し、経済的混乱を防ぐべく震災手形の救済策がとられたが、ここに戦後不況で生じた不良債権が大量に紛れ込み、その根本的解消が行われず金融不安をあおっていた。
 交易の面では大戦中の1917年に金本位制を一旦停止し、大戦後に復帰の機会を窺がったが、戦後不況と関東大震災からくる日本経済の混乱の中で金解禁は先延ばしとなり、金の裏づけのない円が投機対象とされたことから、円為替は乱高下した。経済的にも交易の面からも円の安定が求められ、早急な金解禁を目指したが、それに先立って日本経済に燻る震災手形をはじめとする不良債権を根本的に解消することが急務となった。また、戦後に経済環境が変化した中で戦前の平価を維持するために緊縮財政がとられ、これも日本経済の不況に輪をかけた。
 政界では大正中期より協力体制にあった護憲三派が解体し、交易を重視し金解禁に積極的な憲政会と、北伐から<支那>東北部の権益を守ための戦費を調達する上で借款を行う都合から金解禁には消極的な立憲政友会の対立、政党と財閥と軍部の関係を背景にした対立、政友本党との連携を巡る政治的混乱が深化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E9%87%91%E8%9E%8D%E6%81%90%E6%85%8C

 産業革命期の産業化、富裕化で成長を遂げた富裕層上層の実態は、決して安定的なものではなかったのである。
 高橋亀吉<(注21)>は、むしろ、なぜ経営能力のない事業が成長できていたのかという問題を投げかけ、次のように考察していた。

 (注21)1891~1977年。早大商科<を>・・・1916年(大正5年)に卒業。久原鉱業(現在のENEOS)へ入社し<たが、>・・・東洋経済新報社・・・<に>1918年(大正7年)・・・に入社した。当初、旧平価解禁説だった湛山を購買力平価説で説得したのもニコライ・ブハーリンの『過渡的経済論』と並んでグスタフ・カッセルの『世界の貨幣問題』に影響を受けた亀吉である。入社直後に記者として欧米視察を経て『前衛』『マルクス主義』『社会主義研究』で資本主義研究を執筆。ニューヨークでは、田口運蔵らと共産党ランドスクールでスコット・ニアリングの経済講義などを学んだ。のちに『東洋経済新報』の「財界要報」欄を担当。処女作の『経済学の実際知識』が好評を得、『東洋経済新報』編集長・・・や取締役を経て、1926年退社。
 フリーとして活動を始めて、1932年(昭和7年)・・・に高橋経済研究所を創立すると『高橋財界月報』を刊行して経済評論において先鞭をつける。
 評論活動の傍ら、
1927年(昭和2年) 全日本農民組合同盟会長
1928年(昭和3年) 日本労農党顧問
1937年(昭和12年) 台湾総督府殖産局嘱託、6月第1次近衛内閣下で企画院参与(勅任官)就任。
1938年(昭和13年) 企画院専門委員
1941年(昭和16年) 大政翼賛会政策局参与
1942年(昭和17年) 国策研究会常任理事調査局長、陸軍省事務嘱託
等の公職を歴任する。
 経済政策の議論でも活躍して、金解禁では勝田貞次・堀江帰一らと、日本帝国主義の分析では野呂栄太郎・猪俣津南雄らとそれぞれ論争をする。石橋湛山、小汀利得、山崎靖純ら「新平価解禁四人組」の一人として、リフレーション政策を積極的に唱導した。
 1928年の第16回衆議院議員総選挙では日本農民党の公認で山梨県から立候補するも落選する。昭和研究会に参加して、企画院参与としてアジア・太平洋戦争下の政府の経済政策にも参画する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E4%BA%80%E5%90%89

 「我が会社事業が、従来、或る程度までの利益を挙げ来りしものは、銀塊相場の下落(明治三十年以前は日本は銀本位国であつたから)のため物価騰貴したること、日清、日露戦争で、棚からボタ餅式に儲けたこと、欧州戦争で欧米の競争力一時中絶し、ために鬼の居ぬ間の洗濯が出来たこと、利権の払下げ、独占権の掌握、政府の保護関税主義、国産使用主義の庇護の下に息をついて来たこと、等々、何れも、重役そのものゝ経営能力に起因せざる、他力本願の結果であつた。」」(222)

⇒早大と慶大は、それぞれ、東京専門学校と慶應義塾、として、秀吉流日蓮主義の知的センターとしてスタートを切った高等教育研究機関であり、そのこともあって、早大は、小汀や高橋のような、優秀な経済学者兼経済ジャーナリストを生んだというのが私の考えですが、恐らくは秀吉流日蓮主義の亡失に伴い、戦後、早大等の私大もまた、知的生産性を著しく減衰させたまま現在に至っているのは残念です。(太田)

(続く)