太田述正コラム#13247(2023.1.17)
<増田知子等『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む(その11)>(2023.4.14公開)

 「・・・なぜ蛸配当(注22)>が横行していたのかという問題について、高橋は、台湾銀行<(注23)>、朝鮮銀行<(注24)>の特殊銀行が巨額の不良債権を抱えながら、高配当を続けた挙句に、金融恐慌で政府に救済された事例を挙げた。

 (注22)「会社が,配当可能利益がないのに利益配当をすること。会社法上は違法配当という。〈たこ配〉と略すことが多い。ふつう資産の過大評価,負債の過小評価によって行われる。このような行為は無効とされ,会社は株主・社員にその返還を,会社債権者も会社への返還を請求できる。配当議案を提出した取締役も填補弁償責任を負い,刑罰を受ける。」
https://kotobank.jp/word/%E8%9B%B8%E9%85%8D%E5%BD%93-167463
 (注23)「日清戦争後日本の台湾領有、植民地化に伴い1897年(明治30)公布の台湾銀行法に基づいて99年に設立された特殊銀行。設立時の資本金500万円、うち100万円は政府が出資。銀行券発行、国庫金取扱いなどの特権を付与され、植民地台湾の中央銀行としての役割を果たすとともに、預貸金、外国為替(かわせ)、動産・不動産金融など普通銀行業務もあわせ行った。設立当初は、領有前以来の幣制混乱を整理して金本位の日本通貨体制へと導き、また島内の開発金融にあたっても大いに業績をあげた。第一次世界大戦後より内地および海外での活動を進展させ、なかんずく中国南部、南洋諸島などに支店を設置、日華合弁事業、対華借款など日本の<対外>政策に対応した。他方、内地での業績も第一次世界大戦時の好況で大いに拡大、普通銀行化の傾向を強めたが、1920年(大正9)戦後恐慌を契機に現れた鈴木商店など大口貸出先の経営悪化と、コール資金取入れによる資金調達の無理が27年(昭和2)の金融恐慌時に暴露され、行き詰まった。1930年代なかばに経営再建がなり、第二次世界大戦中は中国南部、東南アジアなどの日本占領地で活躍した<。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E9%8A%80%E8%A1%8C-92335
 (注24)「韓国併合後の1911年(明治44)に朝鮮銀行法に基づいて設立された特殊銀行。朝鮮との修好条約(1876)後、第一国立銀行(のちに第一銀行)は朝鮮に進出、1888年までに釜山、元山、仁川、京城(現ソウル)にそれぞれ支店または出張所を開設し、営業を開始した。大韓帝国成立(1897)後は、海関税など韓国政府の出納事務取扱いのほか、混乱した韓国の通貨整理にあたり、1902年からは10円、5円、1円の銀行券を発行、韓国政府もこれを法貨として公認したので、同行は実質的に韓国中央銀行としての地位を得るに至った。この第一銀行の諸業務は、1909年7月の日韓政府協定により韓国の中央銀行として韓国銀行が設立されると、同行に引き継がれることとなった。1910年韓国併合が実現、韓国の日本植民地化が完成すると、1911年3月朝鮮銀行法が公布され、韓国銀行は朝鮮銀行と改称された。設立時の公称資本金1000万円、本店を京城に置き、朝鮮の中枢金融機関として日本銀行券を準備とする銀行券の発行、国庫事務の取扱いを行うとともに、普通銀行業務を併せ行った。日本の大陸進出とともに満州、華北、シベリアなどにも店舗を設け、広範な活動を展開したが、政治的活動と結び付いた営業のため、しばしば苦境にたち、大蔵省、日本銀行の後援による整理も数回に及んだ。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%8A%80%E8%A1%8C-98002
 「朝鮮銀行は日本の大蔵省の直接監督下におかれ,本店は京城(ソウル)にあったが重要事項はすべて東京で決定されていた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%8A%80%E8%A1%8C-98002

⇒朝鮮銀行設立時の資本金中の政府持ち分が少しネットを調べた限りでは分からず、その前身の第一銀行朝鮮支店について、「公金預金の比重がきわめて大きいことが最大の特徴をなす,日本国内の本支店出張所も,開業以来政府諸省および 諸府県の為薺方として国庫金出納事務を取扱い,官公金 預金の比重はとくに草創期では高かったが・・・,1876年を画期としてそれ以前の6~7割から2~4割へ,さらに87年の国庫制度の完備以降,1割似下へ低下させ,日清戦争時には1%にも満たないネグリジブルなものになっている.だが朝鮮支店はこれと異り,開業以来高い割合を占めておりとくに日清戦争を画期としての公金預金の著増によってそれ以後常に4割以上(最高6割)の高水準を保持 し,「内地」本支店出張所と鮮かな対照をなしている .」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tochiseido/16/1/16_KJ00005118601/_pdf/-char/ja
ことが分かったくらいです。(太田)

 損失補償のためには資本整理(減資・減配)が必須であったにもかかわらず、反動恐慌、関東大震災を経ながら、徹底的に行われることはなかった。
 政府と日銀は株主への高配当を事実上黙認していたのである。
 したがって、政府がいかに金融界、産業界に対し減資・減配を勧告しようとも誰も従わないのは当然であった。
 高橋は「親爺自ら芸者狂ひをしながら、その子の茶屋遊びを諫止するの愚と同一で、効果があらう筈はない。」と酷評していた。」(232)

⇒杉山元らは、総動員体制構築にあたって、高橋らが指摘していたところの、以上のような日本の資本主義の病弊の是正も目指したに相違ありません。(太田)

(続く)