太田述正コラム#13251(2023.1.19)
<増田知子等『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む(その13)>(2023.4.16公開)

 「政党内閣時代には、田中のような政治的野心家だけでなく、資本主義経済の担い手である資本家、実業家らが、「政党株」を高値で購入した。
 高橋亀吉はそのメリットについて、次のように述べていた。
 「政権を取るには議会に多数の代議士を占むればよい。代議士を多数に出すには豊富なる金さへ持つておればよい。而して、一度び政権さへ獲得せば、・・・例へば或は各種利権の獲得に由り、或は補助、保護、救済、買上等の名に由り、或はその他の手段に訴えて、巨大の利益を資本家に約束することが出来る。・・・
 資本家側から云へば、・・・経済的金儲けに力を入れるよりも、金さへ出資せば、寝てゐて莫大の利益の上がる政党企業に出資する方が有利だと云ふことになる。而して、経済活動の実力無き資本家であればあるだけ、此の真理は強大になる。」
 政党内閣が支配できる国家経営組織は、軍組織を除く国家組織全体、つまり、中央政府、地方官庁、植民地長官であった。
 特に重要視されたのが、南満州鉄道株式会社、台湾銀行、朝鮮銀行、興業銀行<(注25)>、勧業銀行<(注26)>、産業中央金庫<(注27)>、大蔵省預金部であった。

 (注25)「官僚である前田正名の提言『興業意見』に基づき、農工業の振興を目的に1897年(明治30年)に設立された日本勧業銀行は、養蚕、紡織、食品など農業と密接した軽工業を主な融資対象としており、日露戦争を契機に急成長した製鉄、造船、電力などの重工業は除外されていた。一方、日露戦争後の日本経済の発展と、その副作用としての恐慌(特に1890年と1898年)は国内資本の不足を露呈し、産業界では外資導入の必要性が叫ばれた。しかし企業単独で外資を調達するのは困難であり、政府保証の下外債を発行し、国内重工業への融資を行う、いわば「工業の中央銀行」(後述の『日本興業銀行法』案提案趣旨説明より)たる新金融機関の構想が、産業界で立てられていった。
 1899年1月、議員提出法案として「日本興業銀行法」案が第13帝国議会に提出された。しかし政府は、外債に限るとはいえ、元利金支払いを政府が保証するという条項に難色を示し、対案として「動産銀行法」案を上程した。内容は、外債債務の政府保証規定が無い点以外は、ほぼ「日本興業銀行法」案と同じだった。両法案は、政府案に政府保証規定を挿入する形で統合され、衆議院を通過したが、貴族院は政府保証規定を削除して修正可決した。衆議院は修正案を否決し直後に解散したので、一旦廃案となった。
 次の第14帝国議会で再上程された「日本興業銀行法」案は、政府保証規定や外債発行を巡って紛糾したが、結局政府保証規定は削除、外債発行については法律では定めない事になり、紆余曲折を経て成立にこぎつけ、翌年3月に公布。1902年に設立総会を開き、資本金1000万円(当時の国家予算の1割強に相当)で営業を開始した。・・・
 2000年 – 富士銀行・第一勧業銀行 の2行と共に金融持株会社となるみずほホールディングス・みずほフィナンシャルグループを設立する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%88%E6%A5%AD%E9%8A%80%E8%A1%8C
 (注26)「1896年(明治29年)、農工業の改良のための長期融資を目的に「日本勧業銀行法」(勧銀法)が制定され、翌年に政府を中心に設立された。東京に本店を置き、支店は大阪のみに限られ、それ以外の北海道を除く各府県には事実上の子会社である農工銀行(勧業銀行法と同時に制定された「農工銀行法」に基づく)が設置され、勧銀への取り次ぎまたは勧銀と同等の業務を行った。なお、基幹産業(特に重化学工業)向けには別途日本興業銀行(興銀)が設置され、勧銀との棲み分けが行われた。また、北海道には勧銀や興銀の代わりに北海道拓殖銀行(拓銀)が設置された。
 長期融資が基本であるため、預金が原資とは成り得ず、代わりに金融債の発行が認められ、かつ割増金付きの債券が唯一認められ、発行した(抽選を行い、当選番号の債券を持つ者に対しては割増金付きで償還された。農工銀行や興銀、拓銀も金融債を発行したが、割増金は認められていなかった)。
 だが、農業に関する融資は個々の農家に対してではなく、事業や組合、担保能力のある地主を対象としたために全く融資が進まず、1911年(明治44年)の法律改正で商業に対する融資も解禁された。大正末期より市街地の不動産金融に乗り出す一方、業務の重複と機能低下を理由に1921年(大正10年)の法律改正(「勧・農合併法」ともいう)以後、各府県の農工銀行をことごとく合併し店舗網を拡大した(このことが、後述のように現在のみずほ銀行が全国の県庁所在地に必ず支店を設置している一因である)。また1923年(大正12年)に当時日本領であった台湾には台北州・台北市に台北支店が開設され、その後も五州の州庁所在地高雄・台中・台南・新竹に支店を次々と開設した[注釈 1]。割増金付き金融債の発行実績が認められ、太平洋戦争中の割増金付き戦時債券の幹事銀行となるが、やがてこの債券は射幸性が高くなり終戦直前には「勝札」と言う名の富籤となり、これが現在の「宝くじ」に繋がる。戦後は福徳定期預金(割増金付きの定期預金)の幹事銀行にもなる。
 戦後の1950年に勧銀法が廃止され、特殊銀行から民間の普通銀行に転換。さらに長短分離政策に伴い拓銀と共に普通銀行の道を選択することとなり、金融債の発行を打ち切って都市銀行の一角となる。・・・
 勧銀末期の出店分布は、上記経緯から地方部の店舗数が多かった反面、首都圏での出店は全体の4割弱と在京行としては手薄であり、当時の関西系上位行とほぼ同等の店舗数に留まっていたため、旧五大銀行でありながら中位行に甘んじていた第一銀行との・・・1971年(昭和46年)10月<の>・・・合併の誘因となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8B%A7%E6%A5%AD%E9%8A%80%E8%A1%8C
 (注27)「第1次大戦の影響で農村経済が潤った時期に,・・・産業組合<の>・・・組合員は100万人から200万人へと倍増したが,大戦後の1920年代,30年代には,不況・恐慌の下で農業経営が困難に直面し,地主と小作人との争いが激化したので,政府は産業組合の育成・普及を農業政策の重点とした。1923年の産業組合中央金庫と全国購買組合連合会の設立,産業組合への低利資金の多額融通などはこの一環である。・・・
 産業組合中央金庫<は>,43年に農林中央金庫と改称された。」
https://kotobank.jp/word/%E7%94%A3%E6%A5%AD%E7%B5%84%E5%90%88%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E9%87%91%E5%BA%AB-1326315

⇒その前身の基幹が準国家機関であったところの、日本勧業銀行と日本興業銀行であったことが、現在のみずほフィナンシャルグループの営利企業としての規律の弛緩を招いていると思われます。(太田)

 植民地の事業を専断できる長官級の争奪は特に激しく、その理由は、「ボロイ金儲けは人目の届かぬ植民地に多い」ことに尽きていた。」(221~222)

⇒主権回復後の戦後日本において、岸カルトは、ざっくり言えば、家業としての政治屋業を目指したり維持したりしたい政治屋達を自民党内の「右」に集め、金儲けのための政治屋業を営もうとしたり営んでいる政治屋達を自民党内の「左」に集め、一代の政治屋業を目指したりそれでよしとしている政治屋達を自民党以外の諸政党に集める、というスタイルでもって、ほぼ恒久的に政権を掌握、ないし、事実上掌握してきた、というのが、役所勤務時代の知識や経験を踏まえた私の見立てです。(太田)

(続く)