太田述正コラム#13262(2023.1.24)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その1)>(2023.4.21公開)

1 始めに

 うち1冊をシリーズに仕立てようと目論んでいたところの、日蓮主義関係の2冊の本、の入手が遅れたこと、と、前シリーズが予想より大幅に早く終わってしまったこと、から、本来、細川護熙論をオフ会「講演」原稿で取り上げる際にでも、その「前座」で取り上げようかと目論んでいたところの、表記・・オフ会幹事の1人がこの前のオフ会の時に提供してくれたもの・・を取り上げたシリーズを急遽お送りすることにしました。
 なお、太田茂(1949年~)は、京大法卒、検事任官、駐中日本大使館一等書記官、法務省秘書課長、最高検総務部長、京都地検検事正、早大法科大学院教授、日大危機管理学部教授、等を経て虎ノ門総合法律事務所弁護士という経歴で、著書に、法律実務書、戦前史書、多数、という人物です。(奥書)

2 『新考・近衛文麿論』を読む

 「<盧溝橋事件が1937年(昭和12年)7月7日に起こり、>現地の事態が悪化する中、7月11日午前11時30分から五相会議が開催された。
 杉山陸相は、関東軍と朝鮮軍に加え、内地からも三個師団の動員を強く主張し、反対する米内海相と激論になった。
 しかし、派兵の目的は、「威力の顕示により支那軍に謝罪と将来の保障をさせること、あくまで不拡大現地解決主義によること、必要なくなれば動員を取り止めること」などの条件で了解され、この方針は午後2時からの閣議で承認された。・・・
 五相会議では、米内海相の提議で「今回の事件をもって第二の満州事変たらしめることは絶対にやらない」と申し合わされた。
 軍中央部は当初、拡大意思はなかったが、かえって政党出身の閣僚の方が強気で、永井柳太郎<(注1)>逓相、中島知久平<(注2)>鉄相は平気で勇ましい暴論を吐き、この際中国軍を徹底的に叩きつけてしまわねばならぬなどと発言した。

 (注1)1881~1944年。「石川県士族・・・の長男。・・・早稲田大学を卒業。在学中早稲田大学雄弁会に所属し、同会での演説が大隈重信に認められオックスフォード大学に留学。帰国後は母校早稲田大学で植民学の教鞭をとったが、早稲田騒動で「天野派幕僚中の謀士」とみなされ、教授職を罷免された。
 1917年(大正6年)の第13回総選挙で石川県第1区に憲政会から立候補するが、政友会の中橋徳五郎に203票差で敗れる。中橋が大阪9区に回った1920年(大正9年)の第14回総選挙では政友会の米原於菟男を破って初当選した。以後連続8回連続当選。民政党幹事長、斎藤内閣の拓務大臣、第1次近衛内閣の逓信大臣を務め、阿部内閣では鉄道大臣と逓信大臣を兼任した。
 民政党内では親軍派の中心におり、聖戦貫徹議員連盟に参加。近衛文麿主唱の新体制運動にもいち早く呼応し、1940年(昭和15年)には同志議員35名とともに民政党を離党。民政党解党・大政翼賛会合流の先鞭をつけた。
 大政翼賛会では常任総務・東亜局長を務めた。1943年(昭和18年)、大日本育英会創立とともに会長に就任。・・・
 東京で空襲が本格化する状況下、「国民に申し訳ない」と言い残して永眠したという。・・・
 大隈と同様、グラッドストンを深く尊敬しており、1922年(大正11年)にはグラッドストンの伝記を著している。またグラッドストンの反帝国主義思想を受け継いで拓相在任中には帝国主義政策の改善にあたった。・・・
 敬虔なクリスチャンでもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E6%9F%B3%E5%A4%AA%E9%83%8E
 早稲田騒動。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E7%A8%B2%E7%94%B0%E9%A8%92%E5%8B%95
 (注2)ちくへい(1884~1949年)。「群馬県・・・の農家・・・の長男<。>・・・海軍機関学校卒業。 明治41年(1908年)1月16日、海軍機関少尉に任官。 明治42年(1909年)10月11日、海軍機関中尉に任官。
 1911年(明治44年)4月、中尉であった中島は、近い将来、飛行機から魚雷投下をして軍艦を沈めるという予言をした。翌1912年には<米国>に派遣され、飛行術・機体整備を学び、1914年(大正3年)にはフランスに出張し、飛行機の制作技術を会得する。その後、偵察機の研究を重視していた海軍航空技術委員会に、魚雷発射用の飛行機の開発をするべきとの意見書を提出したという。1915年(大正4年)、独自の魚雷発射機の設計を発表。
 1916年(大正5年)中島機関大尉と馬越喜七中尉が、欧米で学んだ新知識を傾けて、複葉の水上機を設計した。これが横須賀海軍工廠の長浦造兵部で完成され、横廠式と名づけられた。中島は、航空の将来に着眼し、航空機は国産すべきこと、それは民間製作でなければ不可能という結論を得た。・・・大正6年(1917年)12月1日、既に同年5月には「飛行機研究所」(のちの中島飛行機株式会社)を群馬県尾島町に創設していた中島は海軍の中途退役を認められ予備役編入、同年12月10日に兄弟で「飛行機研究所」を群馬県太田町に移転した。
 その後立憲政友会所属の代議士となり豊富な資金力で党中枢へ登り、新官僚や軍部寄りの革新派を形成して勢力を伸ばした。国政研究会(昭和6年~15年)や国家経済研究所(昭和7年~18年)を設立して学者を招致し、国内外の政治経済状況を調査研究させた。昭和14年(1939年)3月28日には革新同盟という団体を結成して中島の総裁就任を推進した。分裂した政友会中島派の総裁に就任したが、これは長年の間政友会を支配した鈴木・鳩山派への反感から来る周囲の勧めによるものであり、自ら進んでのものではなかった。
 <米国>の国力を知るところから、当初は日米開戦には消極的だったが、開戦後は「米軍の大型爆撃機が量産に入れば日本は焼け野原になる」と連戦連勝の日本軍部を批判し、ガダルカナルの争奪戦では日本の敗戦を予想して、敗勢挽回策としてZ飛行機(いわゆる「富嶽」)を提言するが44年まで無視され、時期に遅れて計画は放棄された。
 近衛内閣では鉄道大臣を務め、昭和13年(1938年)12月2日に鉄道幹線調査分科会をつくり、同年には海底トンネルのための地質調査も始めさせ、その大陸連絡構想は戦後の新幹線に影響を与えた。その組閣3ヶ月後発足した「大政翼賛会」は幕府的、ファッショ的で立憲政治を侵すとして、強力な政党を作ろうとしたが、終戦まで果たせなかった。
 昭和20年(1945年)8月17日東久邇宮内閣で軍需相、軍需省廃止で8月20日商工相。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E7%9F%A5%E4%B9%85%E5%B9%B3

⇒早稲田大育ちとも言える永井はキリスト教徒であったこともあってか、中途半端な秀吉流日蓮主義者で終わり、中島は、杉山らが杉山構想推進グループ入りを図ってもおかしくない人物であったにもかかわらず、彼が海軍出身であったこともあってか、そうしなかったことで秀吉流日蓮主義者になり切らずに終わった、といったところですね。
 いずれにせよ、この前の「講演」原稿(コラム#13183)で記したように、秀吉流日蓮主義推進中枢による工作等を通じて、永井や中島が政党幹部になる頃までには、日本の合法全政党の幹部達が多かれ少なかれ秀吉流日蓮主義シンパになっていたことから、彼らの、日支戦争に際しての姿勢は不思議でも何でもないわけです。(太田)

 民間にも強硬論が沸騰していた。・・・
 広田外相は沈黙し、近衛首相は事件が陸軍の陰謀ではないかと疑っていたが、差し当たりは反対意見を述べなかった。
 午後4時20分、近衛首相が華北派兵の上奏裁可を仰ぎ、天皇は裁可した。」(29~30)

⇒太田茂はプロの歴史家ではないので、何事であれ、彼に対する強い批判は控えるように心がけたいと思いますが、彼に限らず、戦後の日本の歴史愛好家の諸氏が、歴史、とりわけ日本の歴史、を、長期的スパンで捉えるのではなく、いわばスナップショットの連続として捉えるところの、私の言う、出たとこ勝負史観、の人達ばかりなのは、不思議でなりません。(太田)

(続く)