太田述正コラム#13268(2023.1.27)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その3)>(2023.4.24公開)

 「その影響は宗教者や軍人、右翼活動家にとどまらず、宮沢賢治らの文学者、竹内久一<(注8)>や山本鼎<(注9)>、藤牧義夫<(注10)>らの美術家、姉崎正治<(注11)>や上原専祿<(注12)>らの知識人、伊勢丹創業者の小菅丹治<(注13)>のような実業家ほか、学生・婦人・新旧中間層の幅広い社会層におよんだ。

 (注8)1857~1916年。「岡倉に協力して明治22年(1889年)に東京美術学校が開校すると、久一は彫刻科の教師となり2年後に教授に任命される。そこでの仕事はおもに古彫刻の模刻と修復であった。・・・
 代表作は神武天皇立像<、>伎芸天立像<のほか、>・・・博多東公園にある「日蓮聖人銅像」。・・・
 死後、竹内家の菩提寺である浅草松清町真宗大谷派壽林山善照寺に埋葬されるが、善照寺が廃寺になったため、昭和3年(1928年)、巣鴨にある法華宗別院徳栄山總持院本妙寺に改葬された<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E4%B9%85%E4%B8%80
 (注9)1882~1946年。東京美術学校卒。「日本画、洋画と並ぶべき版画の独自性を主張するなど今日の創作版画の隆盛をもたらすことに貢献した。(「版画」という語は鼎の造語であるといわれている。・・・クレパスを考案したことでも知られている。1921年(大正10年)頃より、夫婦で国柱会に入信。・・・鼎の墓所は江戸川区一之江の国柱会墓所にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E9%BC%8E
 (注10)1911~1935年。「日本橋の染織画工・佐々木倉太に弟子入りし、商業図案などを学ぶかたわら、ドイツ表現主義の影響を受けつつ独自の版画様式を確立。全4巻・全長60メートルに及ぶ「隅田川絵巻」は代表的作品である。24歳のとき東京で失踪。墓は館林市朝日町法輪寺。国柱会の信者でもあり、同会本部を描いた作品「申孝園」も遺している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%89%A7%E7%BE%A9%E5%A4%AB
 (注11)あねさきまさはる(1873~1949年)。東大(哲学)卒。「1897年には哲学館(現、東洋大学)で「比較宗教学」を担当、講義し、前後して、浄土高等学院(現、大正大学)、東京専門学校(現、早稲田大学)でも講義を開始した。1900年にドイツ・イギリス・インドに留学し、1903年に帰国。
 1904年、東京帝国大学教授となる。1905年には同大学文科大学に宗教学講座を開設し、日本の宗教学研究の発展の基礎を築いた。・・・
 文人としても優れた才能を持ち、帝大在学中には高山樗牛らと『帝国文学』を創刊した。高山の死後、笹川臨風とともに『樗牛全集』を編集した。盛岡中学校在学中の石川啄木と交流があり、自らの主宰する雑誌『時代思潮』に啄木の詩を載せた。ベルリン大学留学中にリヒャルト・ワーグナーの楽劇に魅せられ、明治末期に知識人たちの間にワーグナー・ブームを巻き起こした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E6%B2%BB
 (注12)1899~1975年。「日蓮宗檀家の商家に生まれる。・・・)東京商科大学(現・一橋大学)専攻部経済学科卒、東京商科大学(現・一橋大学)研究科入学。三浦新七門下。
 その後、ウィーン大学に2年間留学すると、アルフォンス・ドプシュ教授のゼミナールで、当時日本ではまだ珍しかった一次史料の史料批判を通じたヨーロッパ中世史研究の研鑽を積む。
 1946年(昭和21年)高瀬荘太郎の後を継ぎ、東京産業大学(東京産業大学は戦時中東京商科大学から名称変更をよぎなくされた。上原就任中に東京商科大学へ名称再変更となる 現・一橋大学)学長に就任。新制一橋大学の設立に指導的役割を果たした。・・・
 1959年(昭和34年)日米安全保障条約改定に反対し、清水幾太郎や家永三郎らとともに安保問題研究会を結成。翌1960年(昭和35年)一橋大を突如辞職。・・・
 大学退職後は日蓮の研究に傾倒する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%B0%82%E7%A6%84
 (注13)1859~1916年。「呉服店「伊勢丹」創業者。・・・田中智学の初期のパトロン。・・・最勝閣建設には巨財を提供した。」
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%9B%BD%E6%9F%B1%E4%BC%9A
 「最勝閣は静岡県静岡市清水区三保の貝島にあった国柱会の施設。1910年(明治43年)から昭和のはじめまであったという。 初期、本部が置かれた。正境宝殿があった。」
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9C%80%E5%8B%9D%E9%96%A3

 とくに昭和初期以降、・・・日蓮主義に影響を受けた人びとが左右の社会運動、政治活動に取り組み、社会的・政治的にも注目されるようになる。
 また、その活動は国内だけにとどまらなかった。
 朝鮮の緑旗連盟<(注14)、石原莞爾が作った>、中国・満州・朝鮮の東亜連盟<(コラム#9902、10403、10405、12982、13036、13138、13200)>、内蒙古の日蓮宗僧侶・高鍋日統<(注15)>らの活動が実践され、東アジア諸地域で日蓮主義の影響が顕在化する。・・・

 (注14)「緑旗連盟」は京城帝大予科教授津田栄が結成した仏教修養団体だったが、 朝鮮総督府支持団体としての性格を強め、 ・・・<その機関誌の>『緑旗』<は、>・・・御用誌の役割を果した。 」
http://www.kyuko.asia/book/b9242.html
 「緑旗連盟の歴史は、1925年2月11日の紀元節に発足した京城天業青年団に始まっている。同団は、熱心な国柱会(国粋主義的な日蓮宗徒の集団)の会員であった京城帝国大学予科教授・津田栄の周囲に集まった予科の学生によって結成された、法華経研究と修養とを目的とした小さなグループであった。もちろん、この時点では総督府との関係もなかった。28年4月には、京城天業青年団の女性版である「妙観同人の集い」が昭和天皇即位を記念して結成された。結成の中心となったのは、津田栄の妻・節子であった。
 京城天業青年団から卒業生が出るようになると、それらの人びとを組織することが問題となり、30年5月に、京城天業青年団は、そのO・Bたちや妙観同人の集いと合体して緑旗同人会を結成した。しかし、会の性格は、従来通り仏教の修養団体であった。なお、会の名称に使われている「緑」については、「生成発展を象徴する日本主義の神髄を象徴し、それは仏教の仏性、儒教の天に通じ、西洋文化の人本主義の真義を浄化する意味を持つ」ものと説明されている(緑旗日本文化研究所『朝鮮思想界概観』)。」(高崎 宗司1982「緑旗連盟と皇民化運動」『季刊 三千里』第31号:64-65.)
 また34年5月には、女学校を卒業した在朝日本人二世を対象に、倫理、歴史、茶道、家事などを教えて、「内地」の娘にまけない「皇国女性」を育成することを目的に、清和女塾を開設した。塾長は津田よし江(栄の母)、塾監は津田節子、講師は須江愛子らであった。女塾は一年制で、第一回生は10名である。その後、毎年、2、30名が入塾した。44年2月号の『緑旗』に掲載された「清和女塾案内」を見ると、女塾では、「決戦下の婦人育成道場」の名の下に、皇民科、戦時家事科、仕奉科と名付けられた戦時色の濃い教育が行われていた。仕奉というのは、朝鮮人の子弟に日本語を教えたりすることをいう。」(同:69.)」
https://2nd-archaeology.blog.ss-blog.jp/2020-01-24
 (注15)「太宰府出身<。>・・・蒙古開教監督<として、>・・・宣化にほど近い張家口に「立正興亜道場」(昭和十七年)、翌年には「宣化立正興亜道場」を開場し<た。>」
http://otowatid.u.cnet-ta.ne.jp/nitiji.htm
 「志賀島には「蒙古塚」・・・がある。・・・昭和のはじめに高鍋日統という日蓮宗の僧が提唱して供養塔を建てる運動が始まり昭和2年(1927年)5月15日付の碑銘で翌3年3月7日に落成除幕を行った。昭和13年(1938年)には蒙古連盟自治政府の指導者である徳王も参拝され<ている。>」
https://bushidoart.jp/ohta/2017/03/29/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E4%B8%80%E6%97%8F%E3%81%A8%E5%BB%B6%E5%AF%BF%E9%8D%9B%E5%86%B6%EF%BC%88%E5%85%83%E5%AF%87%E7%B7%A84%EF%BC%89/

 私は「日蓮主義運動」<を>・・・以下のように定義する。
 第二次世界大戦前の日本において、『法華経』にもとづく仏教的な政教一致(法国冥合・王仏冥合や立正安国)による日本統合(一国同帰)と世界統一(一天四海皆帰妙法)の実現による理想世界(仏国土)の達成をめざして、社会的・政治的な志向性をもって展開された仏教系宗教運動である。(<大谷栄一>『近代日本の日蓮主義運動』法蔵館、2001年、15頁)
 <ちなみに、>「立正安国」<と>「王仏冥合」<は>・・・日蓮の・・・教説<だが、>・・・「法国冥合」は智学の造語<だ。>・・・」(16)

(続く)