太田述正コラム#13272(2023.1.29)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その5)>(2023.4.26公開)

 「・・・田中智学<の>・・・父親の玄龍は医師で、当時の江戸で有名だった在家講の寿講(日蓮宗堀之内内妙法寺系の題目講<(注18)>)の駿河屋七兵衛の高弟のひとりだった。・・・

 (注18)「法華宗系の信徒によって構成された講。・・・[〈南無妙法蓮華経〉と法華経の題目を唱えることを営為の中心とするので題目講とよばれる。その多くは日蓮(1282年10月13日没)の忌日である13日やその逮夜に当たる12日に営まれ,13日講ともいった。]鎌倉時代末期から知られており、当初は血縁関係に基づく参加が重んじられて一家一族連帯の儀式としても尊重された。だが、中世後期には地縁の紐帯を強める儀式に変質するとともに周辺地域の題目講との連携や所属する寺院が属する本寺及び門流の行事・事業を支援するなど、宗派全体の信仰・経済両面から支える組織となっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%8C%E7%9B%AE%E8%AC%9B
https://kotobank.jp/word/%E9%A1%8C%E7%9B%AE%E8%AC%9B-558535 ([]内)

 玄龍<には>・・・『住本顕本義』という著作もあ<り、>・・・清和源氏の流れを汲む<という>・・・「家系意識から来る尊王感情」も<抱いてい>た。・・・
 <智学は、>明治2年(1869)9月に母親を、翌年2月に<この>父親を相次いで失う。
 <そして、>8歳・・・<にして、>東京の葛飾郡・・・にある日蓮宗一致派<(注19)>の寺院・妙覚寺で出家・得度した。

 (注19)一致派(いっちは)は、日蓮門下の諸門流のうち、妙法蓮華経に本迹の別をよみとりつつも、二十八品全体を一体として所依とする諸派に対する総称(対義語→勝劣派)。・・・
 <日蓮ではなく、>釈尊を本仏とする<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%87%B4%E6%B4%BE

 師匠・・・からは、「智学」法名を授かった。・・・
 明治維新当時のことを、田中智学は昭和初期にこう回想している。
 各宗共に皆廃仏毀釈の煽りを食つて狼狽もし困難もし、一時はどうなることかとさへ思はれた位であつた。・・・「予が見たる明治の日蓮教団」(『現代仏教』105号、1933年)・・・
 得度の後、宗門の教育機関である下総・・・の飯高檀林<(注20)>(いいだかだんりん)、<東京>芝・・・の日蓮宗大教院(現・立正大学<(注21)>)でそれぞれ学んだ。・・・

 (注20)「千葉県・・・匝瑳<(そうさ)>市の中心部から北方へ約8kmの台地上に[1580年に]造られた、関東で最初の日蓮宗の檀林(飯高檀林)である。 徳川家康、養珠院、徳川頼房、徳川頼宣などの外護を受け、格式の高い檀林へ発展した。 他の檀林から編入した学徒は下の学部へ落とされるなど、諸檀林のなかでも優位性ははっきりと示されており、日蓮宗最高かつ最大の学問機関に位置づけることができる。
 天正5年(1573年)に、日統が匝瑳市飯塚・光福寺に学室を開いたことが檀林の前身とされる。 後に京都から日生を招き、土地の有力者で刑部少輔平山常時や妙福寺・日円などの後援を得て、学室を飯高・妙見山妙福寺に移した。これが飯高檀林の発祥である。
 就学課程は8課程で、名目部から入学して、四教学部、集解部、観心部、玄義部、文句部、止観部、御書科を36年間の期間をかけて修了する。
 明治5年(1872年)に学制発布のため廃檀となり、294年間の歴史を閉じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E9%AB%98%E5%AF%BA
 (注21)「飯高檀林を淵源とし、明治5年1872年に近代教育機関として東京芝二本榎の地に開学し<た。>・・・
 1872年 – 東京芝二本榎に日蓮宗小教院を設立。小教院は立正大学開校の起点となる教育研究機関。なお、檀林は1875年に廃止
 1904年 – 専門学校令による日蓮宗大学林を谷山ヶ丘(現・品川区大崎)に設立
 1907年 – 日蓮宗大学林を日蓮宗大学に改称し、研究科・大学科(本科および予科)・中等科・予修科を設置
 1919年 – 財団法人日蓮宗大学設立認可。
 1920年 – 大学科を大学部と改称・・・する
 1924年 – 大学令による立正大学を設立。・・・
 立正大学の名称「立正」とは、日蓮が39歳のときに執筆した「立正安国論」に由来している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%AD%A3%E5%A4%A7%E5%AD%A6 (「注20」の[]内も)

 明治12年(1879)・・・2月、・・・17歳で還俗<。>・・・

⇒父親が在家講関係者であったこと、廃仏毀釈に衝撃を受けたこと、がその契機になったと思われるところ、智学が、自分の家系のよってきたる所以や父親の尊王感情の淵源、を突き詰めて考えたように思えないのが残念です。
 また、島津斉彬が日蓮正宗信徒になったことについてもスルーしてしまっていたようです。
 (日蓮正宗が、日蓮宗勝劣派でしかも日蓮本仏論を唱えていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E6%AD%A3%E5%AE%97
ことで智学が目を背けた可能性があります。)
 智学は、私が提唱したものに類似した、武士論や人間主義論や秀吉流日蓮主義/水戸学論に到達する機会をむざむざ逃してしまった、という感を深くします。(太田)

 明治13年(1880)、・・・、智学は数名の仲間と横浜で日蓮仏教の研究会・蓮華会を結成し、在家仏教運動を開始する。・・・
 明治17年(1884)1月、22歳の智学は東京・・・へ進出し、立正安国会を創立した。」(34、45~49)

(続く)